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ANTIGONE


創作ノート     

 

 私たちマレビトの会はこの夏から秋にかけて『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』という演劇作品の上演をおこなおうとしている。これは、その上演に先立ち、作品創作の指針となるべく書かれた創作ノートである。
 
 この作品は、これまでのマレビトの会のヒロシマ−ナガサキシリーズ(演劇作品『声紋都市-父への手紙』『PARK CITY』『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』)と2011年京都、東京にて上演された習作『マレビト・ライブ N市民~緑下家の物語』の延長線上にある作品として企画され、昨年の三月十一日の大きな出来事とその記憶(東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の事故の影響下にある場所と時間)を主なモチーフとしている。

 死んでこの世にはいない人々の言葉は私たちには理解できない言葉だろう。それを私たちの言葉へと翻訳するときには、私たちのなじみ深い母なる言葉は壊され、まるで見覚えも聞き覚えもない異国の言葉のように響くだろう。それゆえ「死者の言語」から「生きている者の言語」への翻訳は私たちに共有可能な意味の伝達ではなく、そのどちらでもない言葉の生成となるであろう。

 もうひとつの言葉を生み出すこと。これが私たちの演劇作品『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』の主題である。 

 なにものかが「なにかの出来事」を知り語るときに、知り語る側は、語られる側に対して暴力的なふるまいにならざるをえない。語る側は、知り語ることによって、知られ語られる側との差異を表明する。わたしはあなたとともにある、だからあなたの言葉を、そして声を聞かせてください、という内容の発言をしながらも、「私たち」は「彼ら彼女ら」とは違うのだ、という二つの位相の差 異の提示を暗黙のうちに(行為遂行)するのである。
 また、その「なにかの出来事」が、知り語る側のまったく想像力の及ばないものであれば、それは「私たち人間」には理解できないものとして、どのように語るかさえも思い至らないであろう。そのとき、その語りえない出来事は、人知の及ばない「崇高なもの」として対処されることになる。そのとき「崇高なもの」をめぐる神話が語られるのである。その神話によって、それを理解できるものとそうでないものが選別される。
 
 アンティゴネーの行動は常規を逸している。しかし、その行動は、理性的でもある。兄と兄に繫がる大勢の死者たちと結婚しようとし、自殺する。すべきことをし、その自らのなした行為について語るべきことを語り、坦々と死んだのである。
 圧倒されるような理不尽な出来事の前で、このアンティゴネーの冷静な狂気はなにかをもたらすに違いない。それは、言葉を失いかけている私たちがやさしげで安逸な言葉で物語をつくることに流されるのをおしとどめ、戸惑いのうちにあることに踏みとどまらせ思案させる処方箋かもしれない。アンティゴネーが主張する言葉には、打算がなく、粉飾がない。純粋でもなく、とくに美しくもない。クレオンとの政治的な言葉のかけひきを、ただ死者たちのためにのみするのである。私たち生きているものの使う言葉で死者たちのほうへ逝こうとしたのである。

 私たちは、彼女へ向けて旅をすることにした。彼女の言葉を身体で読むために。
 この演劇は、その旅の記録とその上演である。
 
 この作品では二つの種類の上演が行われる。
 第一の上演では、8月から10月にかけて現実の都市において出来事が起こる。上演を提供する側からすれば、あらかじめ書いておいたシナリオによる出来事を起こすのである。それは、ある意味、旅をする上演である。東京から福島市・飯舘村を経て南相馬市へといたる「移動する演劇」のための上演となるであろう。
 しかし、この上演の場には基本的には観客はいない。観客(受容者)は、ある複数のメディア(YouTubeなどの映像記録・ウェブ上のTwitterやFacebook・音声情報・独自の紙媒体等)を通してその上演の記録を知ることになる。(もちろん、その上演の起こる場所へ行くことも可能である)
 第二の上演は、11月ににしすがも創造舎において行われる。基本的に、第一の上演記録(移動演劇における出来事/エピソード)の「再現ドラマ」を上演するのである。この上演で観客ははじめてこの作品にライブで立ち会うことになる。
 これは、この二つの上演の関わりの上で成立する演劇作品である。
 
 この演劇においては、上演は、おこなわれてはいるのだが、よくは見えない。この上演は読まれる。観るのではなく読むこと。第一の上演では主に出演者によって書かれた上演の記録(報告)を読むのであり、第二の上演では観客の眼前に出現する出演者の顔を読むのである。
 この作品では、今日のインターネットやマスメディアによって共有可能 になる公衆の意識、あるいはこの世界の現実の与えるさまざまなイメージと、常に出来事はすでにどこかで起きており私たちはそれに事後的に付き合わざるを得ないという場合の、その過去の取り返しのつかない出来事との関わりようを問いかけたいのである。
 あの盲目の予言者テイレシアスが述べたように、私たちはいま見えることでいまだに見えないでいることに気付いていない。見えるものによって、過去の出来事を見失っている。
 あらゆることはもうすでにあったことである。それゆえ、これからもそれがないとは限らないのだ。だが、私たちは、その「はざま」にあるゆえに生きている。もうすでにあったことは見えないし、これからあるかもしれないこともほんとうは見えない。しかし、それら「不在の像」は、私たちのいる場所にイメージ(映像や想像、そしてイメージを喚起する言葉)として紛れ込みほとんど見分けがつかない。
 私たちの身体はそれら「不在の像」とのつきあいかたを多様化する必要に迫られている。