『クリプトグラフ』京都公演の終演後、演劇批評家の内野儀氏と松田正隆による公開対談を行いました。
                                                      (2007.10.21 アトリエ劇研にて)

 

*1…演出家・劇作家。1966年、「早稲田小劇場」(現・SCOT)を創立。1976年より活動拠点を富山県利賀村に移行。1982年より世界演劇祭「利賀フェスティバル」を18年間主催。1974年、岩波ホール芸術監督、1989年、水戸芸術館芸術総監督を経て、1995年、静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任、2007年、SPAC芸術総監督を宮城聰に引き継ぐ。確立した俳優訓練法のスズキ・メソッドは世界各国の演劇の現場で導入されている。著書に『劇的言語・増補版』(朝日新聞社)『演劇とは何か』(岩波書店)など。

*2…演出家。1990年、シアターカンパニー「ク・ナウカ」を旗揚げ。代表作に『メディア』『エレクトラ』など。2000年、カイロ国際実験演劇祭に参加。2007年、ク・ナウカでの演出活動を休止。同年、静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任。最新の演出作品は『巨匠』。ここで言う獲得された方法は、台詞を全く発しない身体表現を行う者と台詞のみをその脇で発する者を完全に別けて演じる“二人一役”のことである。

 

 

内野:まず最初に感想を申し上げますと、ちょっと言葉に困っていまして、完成度が高いと言って良いのかどうか分らないのですが、まぁ、今まで溜まっていたものが爆発したな、という印象ですね。もっと具体的に言いますと、ひとつは『アウトダフェ』とか『王女A』も密度が高かったのですが、ある種のエキゾチズムというのですかね、異国性みたいなものが割と前面に出ていて、それが出てくるような場所のイメージと繋がるのは当たり前ですが、そういうのが消えたってことがこの作品の特徴だと思うんですね。異国性っていうのは結構危険で、要するにそれで成立しちゃう部分がやっぱりあって、つまり「ここではないどこか」という上演環境の内部で世界が自己完結的に展開する場合があるわけですが、今回私が一番興味深いと思ったのは、私も日々の生活で受けとって困っているいわゆる迷惑メールがたくさんあるわけですが、それをワッと聞こえるように使ったというところですね。地理的にはつまり日本の話だ、というところに引き戻されてきたわけです。つまり、「これは私たちの話だ」っていうことが押し付けがましくなくされていたということがひとつ。それと爆発ということで言うと、最近松田さんはこういう詩的な、ポエティックというのかな、つまり物語性がなく登場人物の具体的な性格が規定されていないような、それから場面と場面の繋がりに必ずしも論理的な展開がない、というのをずっと書いてきたわけですが、そういうものが上演として成立するには、身体がどうしても必要なんですよね。そうしないと言わば空中分解してしまう。劇作家・演出家のコンセプトはおもしろいけれども、上演として成立してないじゃん、やりたいこと分かるけどな、みたいな感じになりがちです。これまでの作品はそういう向きが多少なりともあった気がしますね。それが、今回観させていただいて、ちょっと驚くべきというのかな、パフォーマーの方々が松田さんの劇言語と、劇言語はつまり極めて詩的なものからメールの引用みたいなものまで、しかもそれがメールの引用なんですよという形で、特定可能な言語の体系として、日本語の日常的な機能とは違う話し方を常に要求されて、あるいはその話している内容と身体がズレてくるとか、あらゆるズレなり軋みなりが持ち込まれるとか、そういう方法というか戦略というか、そういうものに、それぞれのパフォーマーの方が非常に巧みに対応していた。そういう意味において、松田さんがこのところやられてきた作業のひとつの到達点になっているんじゃないかと。で、基本的には松田正隆の頭の中はこうなっているんだという感じですが、それが、そのままこうですよって脳の中を見させられるような感じがある。外的な社会性っていうのかな、こういう風にしないと観客には伝わらないだろうなとかあるじゃないですか、劇作家の方が書く場合、普通は、ウケ狙いと言えば言葉が悪いんですが、理解してもらわないと困るので、やっぱり物語があって、そこで悩んでたり悩んでなかったり、恋をしたりしなかったり、死んだり死ななかったりするような物語に託してなんか書くんわけですが、そうじゃなくて、「こうだよ」という具合に自分の頭の中をそのまま見せるっていうのは、ある意味で20世紀の色々な、前衛と一般的には呼ばれる方々がやってきたことではあると思います。で、それには必ず方法が必要になってくる。方法がないと頭の中はこう見せてるっていうのは分かるのだけれど、上演空間的にはなかなか伝わらない。今日はそこのところがヴィヴィットに身体の問題として、ここで生起したという。変な言い方ですけど、もう少し演劇を観てみようかなっていう気になりました。私もう演劇観るの止めようかなと思ってたんですが、最近。でもこれはやっぱり演劇を観なければならないのではと勇気を与えられました。割とベタ褒めしてるみたいですけれど、本当にそう思いました。

松田:身体とか、そういう言葉はずっと慣れないというか、なかなか人と共同作業、以前は劇団を持っていたのですけれどできなくて、集団は途中で解散してしまったのですけれど、人間関係とかそういうこともあって。とりあえず今の俳優たちとは5年くらいやって、最初の頃はどうやっていいか分らないままずっとやって、いつも戯曲みたいなもので、字で書いてゆくものはなんとか書けて、あとは想像力でなんとでもするんですけれど、演劇っていうのはやっぱり現実で繋がっているので、そこにいる俳優をどうやって演出したら良いのか、ということを考えてこの5年間やってきたと思いますが、それでも手法を早く獲得したら良いんじゃないか、というところはまだ分らんのですよね。俳優となんとなくその場でいつもやってゆくのですが、ただ一点、いつも考えていたことはパンフレットにも書きましたけど、声が身体の方に属しているのか、言葉の方に属してしるのか、そのことが分らないまま演劇のスタイルが、まるでその場にいる人が、俳優があたかもその場にいる人のように現実感を纏って、郵便局員だったら郵便局員になったり、警察官だったら警察官になったり、ある人格になってリアリティーを持って喋ることへの抵抗みたいなものはありました。だからその、その前に自分のいつも間にか獲得している声と、今もこうやって日本語喋れてますけど、なんでこう舌が日本語になっているのかとか、生まれて物心ついたら喋ってて、そういうことの奇妙さ、奇跡みたなことはもう少し考えてみたいなっていうのがあったんです。そのことで演劇を続けるっていうことは、母語みたいにくっ付いて離れない、刻印されて刺青のように取れない声ですね。それを演出家として考えることと、俳優が台詞を覚えて喋るということがなんとなく繋がるんじゃないか、それと台詞と声の挟間のようなものを、こうやって喋るのは簡単なんですけど、そういうことをやりたいという。でそれを演劇でやるにはどうしたら良いのか、と考えてますね。今のところこわばってして喋るとか、中毒起こして喋るとか、それ位のことしかできてないんですけれど。これから先やることの中で生まれてくれば良いなと思ってるんですけれど。

内野:今松田さんが仰っていることは形成させていないということになるんですね。多分、今までの作家的な演出家と松田さんが違うなって思うのは、ある着地点というか様式のようなものがあって、自分の方法を獲得する方向に向かって行って、獲得するとそれを反復するということを大体皆やってきたことで、商標マークみたいなものでボソボソ喋るとかも、鈴木忠志*1さんの場合もそうだし、宮城聰*2さんの場合は台詞と身体をふたつに分けるとか、そうなってしまうと伝統芸能になる危険があるって私は言ってるんですけれど。伝統芸能にも発話の仕方が元々は色々あったはずですが、特定の様式を獲得すると、あとは反復と、その様式の中でいかに違うかとか、その様式をいかに見事にやるかという、歌舞伎なんか典型ですが、なんとかの役をなんとかが演じると前より微妙に良かったとかになります。そこでは確かに観客の能力は問われるわけです。今日のも観てて正にそうだったんですが、例えば最初に、俳優が普通に出てきましたよね。あれちょっと驚いたんですよ。普通に、歩いて出てきましたよね。男の人達とかが。私の中で、マレビトの会の様式性というものについて、もうすでに既定のイメージができてたんですね。ところがそれじゃないぞ、と急に言われた。いろんな言葉やシチュエーションの中でいろいろやってみるんだけど、やっぱりそれはある正解や特定の様式を目指してるんじゃなく、言ってみれば「問い」に向かって開かれた形で、言葉の話し方とか色々試されている。上演においては、しかし、そうした試みがリハーサルで公開されているようなワークインプログレス的なことじゃなくて、少なくとも今回はある種の全体性を持っていたと思うんです。全体性っていう言葉は強すぎるとするなら、統合されていたという。マザータン[mother tongue]という、英語では正に母語ということをタン[tongue]、舌ということで言ったことはとても刺激的な論点だと思うんですよね。結局、演劇の論点は他者、劇作家が書いた言葉を同じ日本語だという根拠だけで、それを自然に喋れるはずだということで行われているわけですよね。でも、それでいいのか?あるいは、ほんとうにそうなのか?ということですよね。

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