マレビトの会の次回作『声紋都市—父への手紙 / Voiceprints City — Letter to FATHER』を目前に、立命館大学映像学部で教鞭を執る、映像の専門家・川村健一郎さんによるインタビューを行いました。本公演に先立つ試演会やこれまでのマレビトの会の作品をご覧になったお立場から、映像を用いた演出意図から作品のテーマ・手法まで、多岐にわたってお話を繰り広げていただきました。

 

 

注1:エジプトのカイロにて初演(2007年9月)。以降、京都、中国(北京・上海)、インド(デリー・ラクナウ)にて上演。作・演出:松田正隆。


注2:2008年7月に本公演に先立って、京都芸術センターにて本作「声紋都市—父への手紙」の試演会を上演。

 

 

 


父への映像取材

川村 近々上演される『声紋都市―父への手紙』(以下、『声紋都市』)では、松田さんはお父様に取材されて、それをもとに作品をつくられています。方法としては、取材した内容を戯曲に織り込むというやり方もあったと思いますが、あえて(故郷である)長崎への旅を映像で記録し、しかもそれを作品の舞台装置として使うというやり方を取られています。その理由をまずお聞かせください。

松田 テーマを父親にした理由は三つあって、一つは去年のはじめ頃に父親が大動脈瘤で危篤状況になって、その知らせを聞いたときに父親に原爆資料館へ連れて行かれたときに見た無脳児の写真を思い出したんですね。その理由はよくわからなかったけれども、父が大丈夫ということになって、そのときの感触を演劇にすることは可能だろうかと考えたんです。
二つ目は、ずっと考えていたことがあって、教育長をしていた父親の戦後の教育活動というのが認められて、何年か前に父親が天皇から叙勲をされたんですね。やはり受勲のために皇居に行かなければならないらしくて、父親はものすごく緊張しているわけですね。そのようにして身体に染み込んでいる「天皇」とは父親にとって何なのか、なぜ緊張するのかを考えていたとき、戦前父親が従軍していて一人の兵士だったということが自分には非常に不思議に思えてきたということがありました。長崎には元市長の本島等さんという方がいますが、彼は天皇にも戦争責任があると発言した人ですね。加えて、日本が侵略戦争を行なったことを踏まえて、要するに加害と被害の関わりを両方考えて、広島が世界遺産になるときに広島に対してさえ「広島よ、奢るなかれ」、そこには加害の問題もあるではないかといった人でもあります。本島さんも従軍していて、戦後そのことに対する悔悛の念がずっとつきまとっていた。彼は父親と同世代なのですが、圧倒的多数が私の父親のような人たちなんでしょうけれども、本島さんのような人もいるということを考えたときに、父と天皇の関わりとか、天皇と本島さんのような人との関わりということを考えたんです。
三つ目は、父親というのは最初に出会う私たちの「尺度」のようなもので、どのように父殺しをしないで尺度を否定し、新たな尺度を生成できるのか、さらにいえば、新たな尺度がまた父権化することも回避しながら、どのようにその尺度なるものとつきあうことができるのか。極めて個人的な問題からこうした抽象的な問題までの間で、父性、規範、父なるものというものを演劇にしてみたいと考えたわけです。

川村 実際の父、父の中にある父性、さらに制度としての父権という三重の階層を串刺しにするということですね。

松田 (笑)それはなかなか難しいでしょうから、問題意識はそこにあったということですね。作品化したときに、どのような形式で演劇的な構造の中で、それらの問題を扱うことができるかはやってみないとわからないと思っているのですが。
映像記録を撮って、それをテクストに活用したかったというのはありましたね。スタッフといっしょに長崎を訪れて、いろんな人に証言をしてもらって、その証言を台詞にして、俳優たちにそのまま移植することを試みたいということもあった。それだけではなくて、演劇に映像も使えるというオプションを残しておきたいというのもあった。戯曲を書いていると、自分の書いている台詞、自分のイマジネーションの中にしかオプションがないような感じがするので、作品をつくりあげていく過程で、映像を用いることでもう少し幅が広がるような気がしたんです。

川村 そうすると、やはり映像の果たす役割は作者の試みの中に還元されえない余剰を演劇にもたらすことだということになりますか。

松田 そうですね、外部性があると思います。

川村 『声紋都市』ではその外部性を装置として取り込んで、映像と演劇が全体の演劇作品の中で、いわば対比的に、互いを意識させるような形で構築されているということを強く感じます。単純に考えてみても、映像は長崎取材の記録なので、時制としては過去に属する。また、別の映像には松田さんが原稿用紙に万年筆で戯曲をお書きになられている様子が記録されている。そういう意味で、今生み出されつつある、生成されている戯曲が映像の中に記録されている。一方で、実際に役者が演じている空間は、まさしくそこで戯曲が演じられているのだから、これは現在の時制に属する。しかし、たとえば俳優が軍服を着た兵士として出てくるといったように、時制としては過去に属することがそこで演じられている。映像が長崎という具体的な場所を示していたのに対して、演じられている場所は抽象性をもった、理念としての都市の像を提起している。そういう意味では演劇空間のほうが本当は現実的で、その場固有のここにしかない表現をするにも関わらず、役割が反転してねじれているようにも思えます。

松田 上演という現在時の中に俳優がいて、ある空間を演劇的な強度をもってつくりあげていくときに、映像はせいぜいその演劇的強度を強める役割、つまり背景としての効果だけを狙ったものが多くて、それに対する疑念をつねづね思っていたんですね。『クリプトグラフ』(注1)のときは、写真ということで、写真が演劇空間にはみ出してくればいいなと思っていたのですが、動画だとやはりつくりにくい。動画は、観客を現在行われている舞台空間の中へ同化し、魅了する効果を持っている。そうではない動画の効果というか、演劇空間とぶつかってしまうというか、映像を見ていると、手前の空間で俳優が演じていることが不思議に思えてきてしまうし、手前の俳優の演技を見ていると映像が違和感をもって立ち現れてくる。その映像と演劇の軋みが、今おっしゃったような「時制のずれ」といった形で、演劇作品の尺度を切り崩していくようなことが生まれてくるといいなと思いますけれども。

川村 『クリプトグラフ』のときは、演劇的な強度を解体する一つの要素として、写真と演劇の対比ということ以上に、無意味な言葉(スパムメール)を発声させることによって、演者の身体性における差異やずれを感じさせる側面がやはり大きかったように思います。『クリプトグラフ』の場合は、「言葉」に対する松田さんの考え方を作品の中に織り込むことで、そういった差異の意識、あるいはメタ的な視点を作品にもたらすことができていたのだと思いますが、今回の『声紋都市』においては、確かにシェイクスピアの『ハムレット』やカフカの『父への手紙』など、既成の言葉を活用する側面もあるのですが、それ以上に、動く映像という外部性を導入することによって、メタ的な視点を確保されようとしているように感じるのですが。

松田 確かに、演劇においては、現在ここで行われていることと同時に、過去や異なった場所を想起させるようなことをやらなければいけないわけです。映像の導入は、その狭間にとどまって、どちらにも行かないような状況を舞台空間に現前させる方法だと思うんですね。要するに、普通の演劇では、俳優たちが劇作家の書いたことをあたかも自然に、自発的にしゃべっているのですが、本当は演出家がディクテイターになって、劇作家の書いたものを俳優たちにしゃべらせているわけです。そういうことをもう少し裸にしたいという意図があったんですね。

川村 そうすると演劇においても父権という問題が立ち上がってくる。そのとき、父とはやはり作者=演出家ですね。『声紋都市』の試演会(注2)を拝見させていただいたとき、冒頭に登場する、松田さんをクロースアップで捉えた映像がとても印象的でした。それはやはり演劇における父権、つまり演出家が操り人形的に役者を配置することを解体する試みを予告するものと考えていいのでしょうか。松田さんが、いわば「掟」としての戯曲を書かれるところまで映像化されています。

松田 試演会のときには如実に意識しましたね。今後使うかどうかはこれからの作業次第なのですが。『クリプトグラフ』では非常に抽象的な都市のイメージでしたが、『声紋都市』ではやはり「私が父へ手紙を書く」という具体的な「私」性を基盤に置きたいと思う。「父への手紙」というのは、実際の父に対してだけでなく、天皇に対して、日本に対して、世界に対して字を書くという行為をしてみようということです。その起点は「私」から始まる。それは私演劇ではないと思います。「私」が俳優たちや舞台空間、その上演によって横領されていくと、「作者の主体」が浮遊していくのではないか、ずれていくのではないかということを目論んでいるんです。

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