「ゼロ」に戻る、戻される

松田 笹岡さんが公園に惹きつけられるっていうのは、どうしてでしょうか?

笹岡 あの公園は、自分にとっては当たり前としてきた場所なんだけど、外に出たときに全然当たり前の場所ではないようにみえた。そういうとっかかり、きっかけの場所なんです。撮影のために毎日公園の周辺をぐるぐる周っているんですが、あそこは復興もして、発展もして、人もこれだけ生まれて、日常的にたくさんの人が歩いている場所であると同時に、メモリアルな場所として観光客も大量にきています。それこそ観光業自体が落ち込んでいるのに、あの場所を訪れる観光客はすごく増えています。資料館にも嘘みたいに行列ができている。原爆以後に生まれてそこに生きている人たち、それ以前からそこに生きている人たち、観光として訪れる人たち。それぞれもっているものになにかズレがあって、そのズレのためにまた「ゼロ」に戻っていく。どれだけ復興しても、どれだけ平和だとしても、いつでも、きっといつまでも、やはりそこに戻されてしまうという感覚があるんです。

松田 戻される?何が「ゼロ」に戻るんだろう?広島には、いろいろな人々がいる。たくさんの観光客や、そこに住んでいる人たちがいる。新しく生まれた人や、戦前から生きている人、その中には被爆者もいる。さまざまな層がある。

笹岡 なんていえばいいんだろう……。時間の速度というのかな。発展していく現在とは別に、もうひとつの時間があるように感じるんです。それはなかなか実感しにくいことかもしれないけれど、広島という場所に、ある種、自覚的に住んでいる人は感じたことがあるかもしれません。時計の秒針と時針みたいに、現在は音をたてて主張しながら進んでいくんだけれど、もうひとつの時間はまるで進んでいないようでいて、でもふと見ると針がわずかに動いている。そういう速度の違うふたつの時間軸がふとした拍子に重なったりすると、とたんに「ゼロ」に戻されてしまうような。

松田 忘れさせてくれないってことかな?発展しないような仕組みになっている?

笹岡 そうですね。逆に忘れるなと声高に言えば言うほど歪んでいく。むしろ言わなくても忘れさせてくれない時間がつねにすでにあった。発展の仕方も奇妙な方向に進むわけです。それこそ、平和都市建設法、平和の象徴として復興しましょう、ということを住民たちの投票で決めたわけですし。

松田 引き戻す「ゼロ」の時間があるってことかな?

笹岡 まるで止まったまま、もしかしたら進んでいたり遡ったりして、行ったり来たりしているような時間がどこかにつねにある。それが忘れさせてくれないとかそれを忘れてはいけないということとは違って、ずっと「在る」ものといえばいいですかね。

松田 それは住人の心理とか、広島に来る人たちの心理とは別に、常に廃墟の「時間」が流れているということ?

笹岡 そうですね。廃墟の時間ともいえるもうひとつの時間があるんだと思うんです。

松田 笹岡さんが写真に撮るとき、撮りたいという意思があるかどうかは置いといて、そこに惹かれるというのは、そういう方向からの力があるということでしょうか?

笹岡 そうですね。引き寄せる力があるのかもしれないですね。

松田 それが「ゼロに戻される」という言い方になるのかな。この言葉には、はっとさせられたんです。

笹岡 そういう力に惹かれたというか、たまたま、あ、と気づいてしまった。だからこそ私が撮らなければ、という使命感ではなくて、それはもう覚悟を決めるというかあきらめるというか(笑)。

広島と長崎

笹岡 長崎はそういうのがあるんでしょうか。私は長崎にも何度か行ったことがあるんですが、公園はあっても広島のようなスケールの公園ではないですよね。

松田 長崎は、なにもかもが最小限って感じですね。とりあえず、メモリアルなものもあるんだけど、土地がないから隙間なく家々が建っていかざるを得なかった。もちろん、メモリアルとして残していかなきゃならないから、すこーんと爆心地近くに土地は空いてます。その爆心地の空き具合が、広島とはえらく違いますね。長崎は、爆心地に生活がどんどん入り込んでいる。そういう感じはします。

笹岡 長崎がたどってきた道が広島と近いとしたら、同じようなことが起こっているのかなと思うんですが、その後の作り方が違う気がします。もっとも、住んだことがないので、それこそ旅行者としての感想ですが。

松田 ここ何回か行っている広島で感じた、記念の場所って言いながら、言葉にできないような場所でもあるような不安感といったものは、長崎にはない感じがします。生活できない場所があるっていう感じが長崎にはないんです。
あと、宗教の浦上という場所が大きいのかもしれません。受難として、被爆を宗教の脈絡に捉えることができたってことも大きいと思います。むろん、そうではないという人もいますけど、被爆者の祈りというときの祈り方が、キリスト教の祈りとして回収できるということ。被爆をひとつの受難として捉えた信者がいるっていうこと。その宗教の力っていうのは、重要なことだと思うんです。でも、広島はそんなふうには宗教に回収できない場所ですし。
長崎とくらべることで納得してもしょうがないのかもしれないけど、長崎の場合は中心を囲んでぐるっと回っているんで、あんまり不安感がないんです。ずっと爆心地を日常のなかで見下ろすようにできあがっているんですね。それさえも受け入れるというか。地形の影響ももちろんありますが、長崎の場合は家々が見守っている感じがある。広島の四方へと突き抜ける感じとは違いますね。広島は見守っている視点がわからない。

笹岡 広島はそういった意味で住む空間ではないってことですかね。

松田 そうですね。ただ、公園の向こうに基町アパートがありますね。高層ビル群っていったらいいのかな。あれも不思議な感じがしました。急に世界が変わって、なんか商店街も建物のなかにあるんですよね。昔はにぎわっていたんですか?

笹岡 にぎわっていたと聞きますね。いまはすっかりシャッターが降りていますが、病院、銭湯、商店、学校もあって、あそこだけで生活できる空間になっていたみたいです。

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