松田:90年代に出てきた人達、平田オリザさんにしても、坂手洋二*9さんにしても、内野さんの批評の文章にプチナショナリズムというものがあって。リアリズム演劇で保守的な平田オリザさん、それとはまた違った社会派で、国家批判なんかをやる人達がいる。たとえば、坂手洋二さんや永井愛さんの演劇作品ですが、それはある意味国家から求められた批判なのではないかという文章を読んだことがあり、とてもおもしろかったのですが、そういう批評の書き方をする人はなかなかいないと思いまして。
内野:私はアングラをナショナリストと言ってるわけですが、より良い国家をって言ってる人は国家主義ですからね。今は駄目だけどこの先よくしましょうというのはナショナリストで。私はやっぱり21世紀に入って、本当はもっと前からですけれども、国家と資本主義があるじゃないですか。今は資本主義の方が前に押し出されてきたわけですよね。で、資本主義が拡大するために必要な形に国家そのものがその姿を変えなきゃいけなくなったわけです。にもかかわらず、とりあえず資本主義は置いといて、国家がけしからんというのは殆ど民主党みたいなわけで、でもその民主党も政権取ったりするわけだから、もうどっちもどっちですよね。資本主義を批判するっていうのは簡単なようで難しくて、例えば原理的なことで言ってゆくと、助成を受け取ってはいかんということになってくる、もっとと言うと、観客から料金を取るのは良いのかっていうことになって、何もできなくなってくる。原理主義的に突き詰めてゆくとそうなってしまいます。それで演劇を辞めるっていう人も、私の友人とかでもいるんですけど。あるいは、必ず無料でしか公演をしないって若い連中も出てきたし。助成金を貰わないって人達もいなくはない、そういう原理主義みたいなことがあっても良いんですけど、今日のお芝居のネットのメールみたいなもの、あれって資本主義の欲望マシーンの一番最先端の具体的な現れですよね。ああいうことを上演に出してくること自体が、私から見ると、資本主義を問題にしていることになるんです。ちょっと視点を変えなきゃいけないのは、今日の芝居でおもしろかったのは、抑圧する人抑圧される人の二元論になっていないところですよね。で二元論にすると必ず今ここにはいない悪者ってのが想定されていて、それは政府の人だったり、権力者だったり、企業の人だったり、資本主義全般なんですけれど、で、私達は抑圧されています、けしからんけしからんって言って、観客もそうだそうだって言って、そこだけで完結されて何も実は変わらないっていうことになる。だから国家から望まれている批判をされても痛くも痒くもないというふうに私は言うわけです。ただ永井愛*10さんだけは別格で、それは単純に彼女がフェミニストだからです。太田省吾さんに怒られましたけどね。永井愛さんだけは認められないって、なんで内野さんは永井さんを擁護するんだ、理解できないって言われたんです。それは彼女がフェミニストだからということです。つまり女性ということを問題にしている社会派の人は彼女しか先にも後にもこの国にはいない。その意味での重要性を認めなければならない。基本的に皆抑圧されていて、悪いのは権力だっていう図式の中で成立している演劇は、国家にとって都合が良いだけなので、私としては観たくないというだけです
松田:国家に絡めとられないで演劇をやるという、そういう場というのはどういう風に成立させれば良いんですかね。
内野:ここで出来てるじゃないですか。それは言い過ぎかもしれないですけど、でも太田さんはそれをおっしゃってたと思うんですよね。太田さんはやや世代的なこともあるかもしれないんですけど、生命存在としての人間があってその後に社会ってものが付いて来るということですよね。その社会のレベルが入って来ると国家、あるいはもう少し抽象的に言うと制度に支配されるっていうことを考えて、実践もされていたわけですが、私が松田さんに新しさを感じるのは、今日出ているパフォーマーの方達が今ここに生きてる人達だっていうことですよね。生きてる人達だっていうことを消さないのが松田さんの演出だと思うんですよ。消そうとしてる?
松田:いや、分らないんですけど、そういう言われ方をするとおもしろいですよね。「生な存在」を消す、消さないというのは。
内野:それを消してフィクショナルなものを作る。私は60年代の人達がそうだったと思っているんですよね。惨めな日常を忘れましょうって言い方は悪いんですけど、直接的な日常ではなくてフィクショナルなキャラクターになることで抵抗感を組織してゆくみたいな、社会とは異なる存在で結実するとか、身体が立つとか、特権的な俳優になるとか。
松田:それは俳優を追い込んでいって、演出家が要求する抽象的な存在になるということですか。
内野:そうですね。その強度っていうのかな、例えば白石加代子*11さんがある登場人物のキャラクターになり切ることによって強度を獲得するということです。それは日本の演劇のひとつの特徴ではあると思うんですが、実際問題、所謂作家の時代と言われている演劇もそういうところがあって、松尾スズキ*12さんにしても宮沢章夫*13さんにしても、ダメな俳優を連れて来て、登場人物の枠に嵌め込むことで何か、
松田:素材を大事にする。
内野:大事にするんだけど、物語に嵌め込むことで強さを与えてゆくという。つまり、普通に話していると普通の人なんだけど、キャラクターとしては変な人になれる。そういう強みっていうのかな。白石さんなんか話している普通のおばさん、っていうと怒られるかもしれないけど、特に目立たない人なんですが、ある関係に入ることで凄いことになるんです。確かにそれが日本の演劇のひとつの強みだったと思うんですよね。で、それは違うだろうというのが平田さんだったと思うんです。平田さんは直接的に日常というものを生きている感覚や身体を大事にするから、日常語を与えてゆくということにしたわけですね。だけどそれがとても小さいところ小さいところで落ちてしまって、松田さんはその両方の良いとこ取りを試みている感じがする。今日観た限りではそれが上手くいきそうになっている感じなんですけどね。
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