演劇から映画の観客になること(マレビトの会、映画『広島を上演する』評)

石見  舟

  マレビトの会は2013年から2018年まで演劇の公演として『長崎を上演する』、『福島を上演する』を発表してきた。それらは、複数の劇作家がその地へ赴いた後で戯曲を書き、それをオムニバス形式で演じるというスタイルだった。それによってその土地の現在、そして記憶のありようを独自のしかたで捉える試みであったと言えるだろう。いや、より正確に言うならば、そのようにして生まれた戯曲を、取材地からは遠く離れた劇場に大道具を一切持ち込まず、普段着風の俳優を登場させ、大げさな言い方や身振りを排除した朴訥とした演技で見せることによって、取材地をいかに捉え〈損ねる〉のかを測る試みであった。そしてこれらの試みはいよいよ、最初の被爆都市である広島を取材地とする『広島を上演する』へ展開する。今回、マレビトの会は5年間の休止の後に手始めとして、演劇ではなく133分の映画としてそれを発表することになった。

  映画『広島を上演する』を見た後で、評者には、今回映画という別の技術を「迂回」することは必要な策であったように思われた。それはこれまでの二つのプロジェクトで上がった成果との比較からも可能である。『長崎を上演する』でマレビトの会が見つけ出したのは、地図上の点としての爆心地に対して、目に見えるあからさまな態度を取ることができないという事態であった。追悼施設の展示を見る人、ベンチに座る人、あるいは順路を来場者に伝える係員もまた、皆がなにかしらの追悼の感情を持ち、それが所作に表れているはずなのに、私たち観客はその所作を特別な追悼の所作として認識することができないのである。そこに『長崎を上演する』の成果のひとつがあった。

  続く『福島を上演する』では、原子力発電所事故による被曝と避難、そしてその後の発電所での作業において、『長崎を上演する』とは異なる「被爆/被曝」に向き合うことが求められた。それは2011年以降の被曝という、見ることも聞くこともできない状況を身体芸術が扱うことの困難に直面することを意味する。ここでは点的な爆心地とは正反対に、人間の手も及ばぬ途方もない空間をなんとか「風景」というかたちで劇場において感覚可能にするための試みがなされたとも言えるだろう。『福島を上演する』では、俳優たちだけではなく、彼らがいない〈あまりの空間〉への意識を観客に促すこととなった。

  このようにプロジェクト毎に表現の限界と向き合ってきたマレビトの会が『広島を上演する』でさらなる困難に直面するであろうことは以前から容易に想像できたことである。なぜならば、原爆の犠牲となった広島を、『長崎を上演する』と同じ手法を用いて、言葉や固有名詞を広島に差し替えるだけでは意味がないからである。広島と長崎という都市はそれぞれ異なる都市であったにもかかわらず、1945年8月に突如世界史的にペアとして語られることになった。はたしてマレビトの会は、これまでの成果をもとに、どのように広島の独自性を表現していくのだろうか。

  映画という技術を「迂回」することが意味するのは、「取材地としての現場が舞台上に欠けていること」を観客に意識させる演劇的手法をいったん手放すことであった。なぜならば、取材地でロケーションができてしまう映画の観客にとって、取材地がスクリーン上にあることは容易に信じることができてしまうからだ。「そこに広島の風景がある」と。この映画の一つ目のエピソード「しるしのない窓へ」(監督・三間旭浩)の冒頭、真っ暗な画面から鳥のさえずりが聞こえ、次に女性の顔が映り、そして揺らめく川面のショットが続くことで、風景が――断片的ではあるものの――もうすでにそこにある。すなわち、映画の観客は、自発的に風景を探し出すのではなく、作り手による風景を一方的に見聞きさせられる状況に置かれるのである。私たちは映画に慣れっこになってしまっているが、この視聴覚の圧倒的な「強制力」――とあえて呼んでみる――は演劇の観客からすると逃げ場のないもので、かなり苦しいものですらある。

  映画は四つのエピソードによって構成されている。一つ目の「しるしのない窓へ」と三つ目の「夢の涯てまで」(監督・草野なつか)はいわゆる劇映画である。「しるしのない窓へ」はそれぞれ服と詩の作り手であるカップルが、同じタイミングで物を作り上げ、相手に見せるときの意識と時間のずれが、ささいな所作とともにひりつくように描かれる。そして突然現れてはそれを眺める大学生。日常生活を盗み見ていた観客の姿がそこにあるようだ。

  「夢の涯てまで」では、東京に住む画家が広島との接点を模索する。「しるしのない窓へ」が原爆ドームを画面に収めたのと好対照に、ここでは東京の世田谷線という路面電車が広島を匂わせるように出てくるのみで、広島という地の遠さが見えてくる。画家は世田谷線沿いの古本屋で原民喜の詩集を買い、それを朗読することで広島を思う。

  この二つの劇作品に挟まる「ヒロエさんと広島を上演する」(監督・山田咲)は、戦後まもなく広島に生まれた川下ヒロエが生活の記憶を証言する様子を納める。彼女の語りは、視点がなんのてらいもなく目まぐるしく変わるために聴く者を混乱させる。また彼女の決して流暢ではない語り方は、彼女がしばらくカメラの前に姿を見せないのも相まって、傷ついたレコードを再生したものを聴いているのか、評者にははじめ分からなかった。それが後ほどカメラの前にいる一人のオーラル・ヒストリーなのだと分かって、評者は驚いた。人間は、このような独特で複雑な語りを、作為を感じさせずにいとも容易くできてしまうのである。

  最後「それがどこであっても」(監督・遠藤幹大)は、マレビトの会に俳優として長くかかわり、この映画にも出演している西山真来による戯曲の稽古風景を前半に見せる(と言っても、演出家による中断がないので、ほとんど稽古場での上演と言って差し支えないだろう)。後半は稽古に立ち会っていたひとりの男性(かのけん)が人間の頭の形をした黒い録音機材を携えて町や川辺で音を採集する様子を淡々と描いていく。補聴器を付けているこの人の代わりとなるかのようにその黒い頭型のマイクは最初木々のざわめきや川の音を拾っていたが、次第にそのやり方は暴力的になっていく。コンクリートの壁に耳を擦りつけられたり、首の下から伸びるケーブルを犬のリードのように引きずって川辺へと降りていったりするあいだ、観客はゴリゴリ、ズルズルと激しい摩擦音を延々と聞かされる。その轟音と対照的に、観客はそれを淡々と遂行する男性の引きのショットを見せられる。すなわち、観客の耳は頭型のマイクにありながら、目はそれを客観的に捉える場所に置かれることとなり、この映画のなかでこれまで親しんできた目と耳の関係はバラバラになる。スクリーンに対して観客は没入しきることも、徹底して距離を取ることもできないのである。

  『福島を上演する』でだだっ広い舞台に「風景」を見出した評者を含む観客たちにたいして、映画『広島を上演する』は、人が観客の前に出て、言葉を発するときの視聴覚的情報が分離可能であることを示す。マレビトの会はこれまでも何度も映画を参照してきたが、この度とうとう映画そのものを作った。広島という取材地の近さと遠さは、また別の仕方で撹乱されたわけだ。これからこのプロジェクトがどのように動いていくのか、一観客として楽しみである。

慶應義塾大学等非常勤講師。専門は演劇学およびドイツ文学、特に20世紀ドイツ演劇(ベルトルト・ブレヒト、ハイナー・ミュラー)。関心領域は、演劇における風景、亡霊、政治論。
主な論文に「『空っぽの真ん中』という風景——ハイナー・ミュラー『落魄の岸辺 メデイアマテリアル アルゴー船隊員たちのいる風景』における破局的風景の時空間」(『研究年報』第38号、2021年)、「〈今ここ〉からずれる風景——ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』を例に」(平田栄一朗・針貝真理子・北川千香子共編『文化を問い直す』彩流社、2021年、165–188頁)など。
プロフィール:http://web.flet.keio.ac.jp/~hirata/Profis/Ishimi_Profi.html