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福島を上演する

フェスティバル/トーキョー16『福島を上演する』 『福島を上演する』試演会 フェスティバル/トーキョー17『福島を上演する』 フェスティバル/トーキョー18『福島を上演する』 メディア掲載情報



「ただ霊感を与え、目を覚まさせ、ものが視えるようにさせること、それしか彼はのぞまなかった」(ドゥルーズ「スピノザ」)
このあとG・ドゥルーズは、自由にものが視えるようになるための望遠鏡について、次のヘンリー・ミラーの言葉を引用している。スピノザは望遠鏡のレンズ磨きで生計をたてていた。
「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしのない準備でしかない。いつの日かレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう」

この作品は、かつて突然の破局に見舞われた都市の現在の出来事をどのように演劇として上演することができるのかという問題提起のもとに創作される。マレビトの会はこれをモチーフとした「長崎を上演する」という作品を2013年から3年間にわたり創作・上演してきた。今作はその方法を継承しながらも、この上演形態そのものを生成変化させる試みである。
前回の上演シリーズと同様に今作の方法も、戯曲を書く者たちが福島を訪れ、そこに身をおいて経験した街の光景や人々の生活等からの印象をもとにいくつかの断片的な戯曲を書き、それをリハーサルの過程を経て俳優が劇場空間において総合し上演する、というものである。
まずはこれを手がかりとし、「福島」という新たな主題とその創作過程で起こるさまざまな出来事へ向けて、多様体であるべく私たちを開く演劇の力を生みだすことが大きな課題となるだろう。多様体であることは、舞台に立つ身体とその時空間からの私たちへの問いかけである。多様体とは、社会の既存の価値基準によって主体や様相が固定された市民の表象ではなく、顔かたちのない多数者の群れとその周りの言葉にならない時間と空間である。演劇は「見ること」と「話すこと」の組み合わせにおいて生じることである。その二つの無限の結びつきによって劇場空間が多様体へと生成変化する(=「なる」)ことを私たちの上演の目的としたい。
「福島を上演する」の上演は、2016年11月17日、18日、19日、20日の4日間4回で行われる予定である。この4日間4公演にわたる演劇作品は、複数の書き手による戯曲をもとにした演劇上演で構成されている。4つの公演の上演構成は毎回異なる。したがって、この上演作品は、戯曲ごとで分割できるオムニバス形式の短編戯曲を羅列して上演するものではない。4日間にわたって繰り広げられる「福島を上演する」という演劇全体が一つの上演作品であり、観客が一回の上演を観るという経験は、全体の一部を垣間見ることと同時に、この福島という都市を主題とした演劇全体の時間と空間に身を持って参入することでもある。なぜなら、あらゆる都市の時間は少しも同じことを反復することなく、日々刻々と流れ去っていくものであり、私たちの上演する「福島」も同様に流動する時空間を表現しなければならないからだ。福島という都市においては、今見ている夕方の5時は、昨日でも明日でもない夕方のはずである。昨日見逃した夕方は、今日の夕方が肩代わりできない夕方であり、その夕方はこの先も二度と起こらない。でありながらも、この世界と同様に福島においても出来事は起こっている。それは反復する。つまりこれまでとは全く異なった出来事が再来するという意味で、それは反復するのである。出来事は一つの言葉で表象できない特異な事態であり、私たちが表現しようとする「福島」とはそういう出来事が集積し、繰り返される場所(時間と空間)である。それを演劇で表現することは、いまだかつて起こらなかった出来事を、劇場で起こすことでもあるのだ。

松田正隆
(フェスティバル/トーキョー16『福島を上演する』創作コンセプトより)