演出ノー ト

この演劇のテクストは都市についての報告書である。
ここで報告される都市は架空の都市であるが、かつて世界のどこかにあったであろう都市の相貌を持っている。
また、この報告の中には、都市に住む人々の記憶も含まれている。それらは、私たちの知る世界の歴史に一度も記録されなかったものである。それゆえ私たちは知る術がない。
しかし、それらの記憶は、都市の遺物(あるいは廃棄物)として残されている。その遺物が発する暗号(クリプトグラム)のような秘められた文字を暗号受信器(クリプトグラフ)である俳優が読み取り音声化するというのが、この演劇で試みたかったことである。その過程を経て、終幕後残されるエクリチュールが布に包まれ吊り下げられたゴミの星座となれば、と思った。
俳優の吐くせりふはある意味、様々な都市の来歴を知る遺物たちを供養するための呪文である。また、その仕草は追悼のための弔いの身振りである。それは、人々の取るに足らない思い出やくどいように届くスパムメール、失われた都市の痕跡が刻まれた街路の名前、差出人も宛先も知れぬ手紙の断片である。あるいはまた、いつか見たかもしれない夢の中の光景である。
それらは、誰にも漏らすことのなかった重大な秘密(クリプト)とかかわりを持つものではないのか。ただし、その秘密のことは誰も知ることができない。
重大な秘密はなぜ漏らすことができないのか。いったい秘密とはなにか。
この作品の後半で反復される「言おうとしないことを許してください」というせりふは、ジャック・デリダの『秘密の文学』からの引用である。
アブラハムが息子のイサクに死を与えようとしたことを誰にも語らなかったこと。そのことを神との固有な強い結びつきとして捉えながらも、やはり、なぜ神が「この私」にそのような試練を命じるのかはアブラハムには理解できない。それでも、神との密約があれば最愛の者であっても神に差し出すということ。そこでは、秘密が秘密のままに受容されるのである。つまり、アブラハムは秘密を神と共有しながらも、その秘密にする行為自体の根拠は神と共有しえない。なぜ私が私の息子を殺さねばならないのか。神と私だけの契約とはいえ、それがこの私なのは、何故か。息子の犠牲を神に命じられたのが「私である」ということの陶酔と耐えきれなさ。
このような秘密を持つということは、その秘密の二重の意味を許容することであり、それゆえとてもおそろしいことである。秘密はまったく理解できない他者の言語で書かれている。秘密を抱えるということは異質な他者の領土を飛び地のように自らの身体に置くことだ。
「言おうとしない」のはなぜかというと、秘密にしなければならない何らかの超越的なものによる要請とその受容、そして、そもそもその言おうとすることを言うことができないからだ(言おうにも意味をなさないことは言いようがない)。
そのことについて書き、演劇にすることがこの作品においての主題であった。そこには受難を生きようとするものへの眼差しのあり方と聞き耳を立てる術があるのではないか。

『クリプトグラフ』(2007) 上演台本より

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