「遠い」光の劇|山田咲
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新作公演『皿の上の見えない人間 Invisible woman on the plate』に向けた論考です。
見えないもの、舞台上にないものと、あるものとのコンビネーションがすさまじい速度で、というとこの作品の印象とずれるが、とにかく多様なコンビネーションが間断なく連なって、都度、光景が立ち現れる。この国の、地方の、日常生活の、とるに足らない、いてもいなくなっても気づかれもしないような人々の。
これらの光景は、ことごとく遠い。あまりの遠さに震え上がる。遠くで進行している何かを目の当たりにしながらも、なすすべがないから。遠くで進行している何かを目の当たりにする?
これらの光景は、かつてのマレビトの会、特に『長崎を上演する』にて、書かれた戯曲が持つ過去の時空が、舞台上の俳優の身体やしぐさを媒介に現在の時空と併存することで生まれるある種安定した(←今おもえば)現前とは質が違う。
遠さのわけは、ひとつに語り手の存在、もうひとつに書かれた出来事のとるに足らなさに由来する。語り手はいわずもがな過去性、つまり今との距離をひっさげて上演空間にいすわる。日常生活で隣にいそうな誰かがSNSにあげようなんて思いもしない小さな出来事は、別な大陸の空爆より、ここからアクセス不可能な遠さにある。
その他に?まだあるだろう?目の前の光景がこんなに遠い、そのわけは?
マレビトの会は被爆都市をテーマに作品を発表してきた。上演の場で立ち上がる時空は、その外にあるかつてあった出来事によって光を当てられてきた。光源は外にあった。戯曲の書き手が実際にその都市に行くという経験を経てから執筆するスタイルもそのひとつだった。今回は、光源を内包すること、上演の中からかつてあった出来事を生みだした光とつながること、地続きになることの方へ向かいつつある。
光源を内包しようとしているとして、その過程で生まれているこの遠さの感覚は何か。遠さとは、ここから見たあの出来事とこの出来事の距離の差が消える感じに近い。時間的にも空間的にも。
遠さは、出来事を光景にし、あの光景とこの光景をならべる。遠さは、時空を異にする光景を一つの遠さの中に並べる。冬の夜の暗い山道をひとりで歩いていたら、急に遠くに街の光が見えた。初めて見る遠い街は、いつのどこの街とも知れず、ただ街であることだけを確かに佇んでいる。そこには営みが動いているのが見て取れる。夜空ではベテルギウスが輝いている。642年前に発した光でもって。すでに爆発してもう存在しないかもしれないが、光はここに届いている。遠さは光を、光景をこうしてならべる。
光は時間性をともなった波長であり、同時に空間を占める粒子でもある。≒ 遠くで進行している何かを目の当たりにする。
発光はエネルギーの放出であり、その影響は焼痕となる。焼け付き、焼き尽くされたものは、かつてあった。かつてあったとは、ありつづけるとどう違う?熟慮の時。記憶されたことは必ず忘れられる。忘却は消滅なのか?
それぞれの光景がならぶと、遠さの中に距離が滅失して過去が過去のまま再び現前しうる場所が開けはじめる。場合によっては見えない何かと隣り合って、目の前にひきずり出されてくる。
山田咲
1980年生まれ、東京都出身。大学在学中より映像作品を作りはじめ、その後劇映画の監督、舞台作品の演出やドラマトゥルクを務め現在に至る。2014年の『長崎を上演する』2回目の試演会からマレビトの会に関わりはじめる。京都市在住。