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「皿の上の見えない人間」のためのノート|松田正隆

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 佐世保から博多に向かう特急列車の車窓から見える沿線の町を舞台にして劇をつくってみたいと思っていた。海辺の町を原体験として持つ私には、山あいの小さな陶磁器の町、その煙突のある風景はとても魅力的だった。とは言え、通り過ぎるだけの場所を劇の上演にするまでの充分な動機があるとは思えなかった。

 昨年の春、その町、佐賀県の有田に行く機会があって、そこを実際に歩いたのだが、とりたてて何かを感じるようなことにはならなかった。列車で通過するにせよ、その町並みを歩くにせよ、結局、私にはその場所はよそよそしかった。それは、地方に特有の、どこにでもある平凡な、あの荒涼とした感触があったからでもある。

 陶磁器を売る店がいくつもあって、そこに入っては皿を手にした。手にするだけで何も買わなかった。どの皿も等しく硬く冷たかった。皿さえも私にはよそよそしい。ひとまず、私はそれはそれでいいのではないかと思うしかなかった。

 
 夜の器の硬い面の内で
 あざやかさを増してくる
 秋のくだもの
 

 このように始まる、吉岡実の「静物」という詩の言葉は、この劇をつくるときの指針の一つだった。夜の器の硬い面と果実。くだものは、夜、器の硬質さにフレーミングされてあざやかさを増す。自然からもぎとられた果実の生は器の面の硬さに接して光沢を得る。しかし、それは豊かな腐爛の時間をはらんでいると詩人は言う。夜、生々しいものは無機物と出会って、死者の歯の前で、石のようにあざやかになる。この光の放たれはその器と果実の混合に起点を持つ。そして、夜であることが静物の世界を眠りのままに活動させている。動かぬものが動いている。

 この詩句によって配された夜の陳列を混合と書いたが、それはしかし、器とくだもの、果実同士が溶け合っているわけではなく、それらの領分を保持しながら特異な感覚を発しているにすぎない。

 
 りんごや梨やぶどうの類
 それぞれは
 かさなったままの姿勢で
 眠りへ
 ひとつの諧調へ
 大いなる音楽へと沿うてゆく
 

 器とくだもののかさなりが、諧調を、音楽を生み出している。いや、生み出していると言うより、器とくだもののかさなりが眠りへ諧調へ音楽へと沿うてゆくのである。沿うてゆくことで、そこには質感が生じている。もの同士の領分を保持しつつ特異な感覚を発しているというのは、この質(tension=張力)のことである。

 それは器の硬質さではない。それは果実の腐爛をはらむ生々しさではない。それは直ちに夜の闇と拮抗し、眠りとの同盟を結ぶ「質」なのである。その「質」感こそが、光の放たれである。それは、何かから光を当てられているのではなく何かを照らしているのでもない。「質」は、空間的に延張(extension)されるものではなく、内包的な強度(intension)を感受すべきこととしてある。それはつまり、一種の張り詰めた色調のリズムであり、無音のメロディーだ。

 有田の町が私にはよそよそしかったと言ったが、この世のあらゆる場所が人間にはよそよそしいのだ。私のほうから人間のほうから、町へ場所へ働きかければ、それらはそっぽを向くに決まっている。その場所が、あまりにも荒涼としていると感じるのは主観的すぎるのだ。確かにそこは荒廃し、場所的に終わっているのは確かだ(というか、始まってさえいない)が、それは単に、私という人間のほうからの心的な印象にすぎない。私は今さらながら場所に何かを期待していたのかもしれない。

 何も期待することのない場所。殺風景。それは何も地方に限ったことではない。

 この世界が加速的にグローバル化し、資本があらゆる時空間を席巻した挙句、徹底的に均質化しスラム化した場所が、今まさに寂寞としてあらわになっている。地方(ローカル)であることは砂漠を意味する。そこに活気を、みずみずしさを取り戻すことなどできない。なぜなら、もうすでに、私たちはその場所に馴染みきっているからだ。身体はいつの間にかつくりかえられている。場所との見境がつかない。東京にいて、サイゼリアの壁面の、何のありがたさも覚えないルネッサンスの画家たちの絵を眺めながら一人でパスタを食べるとき、そんなことを考えたりする。この世に個別特殊に際立つ場所などどこにもない。ここも地方(砂漠)だよなーと思う。

 私は以前、殺風景であること、そのさなかにあることは現在時に窒息するようなことだと書いたことがある。出来事につかまれ、それを起点にして劇ができはしないかと(「出来事につかまれる」)。演劇こそが現在という時間に直面していて、そこから何かを始めざるをえない。それは絶好の機会(チャンス)ではないか、と。

 だが、その現在という契機は、演劇の上演が陥りやすいあのライブ感によってかき消され埋もれてゆく時間のことではないはずだ。その契機を有機的な生々しさから隔てるためには場面が必要になる。謂わば、映画のスクリーンのような。それゆえ、演劇は、現在を保全するために映画にならなければならない。演劇が現在に足場を置くなんてことは自明のことではないのだから。この数年間のマレビトの会の試みは、そんな不可能なメディウムを演劇に仮構することだったように思える。

 では、その保全すべき演劇の現在とはどのような時間なのか。

 二人の敵と戦う「彼」を描いたカフカの寓話がある。一人の敵は後方から、彼の出てきた起源の方から彼を圧迫し、もう一方の敵は彼の前方に立ち塞がる。彼は現在にあって、後方と前方、過去と未来に同時に相対し戦わねばならない。その戦いの現場を時間の裂け目(ギャップ)だととらえるのはハンナ・アーレントである。過去も未来も起源はなく、その二つの力は無限の彼方から彼をめがけ戦いを挑んで来る。そこで、アーレントが呈示する時間の裂け目のイメージは、物理学者が力の平行四辺形と呼ぶものに似るというのである。

 

 カフカの「彼」が自ら戦場と思いなす過去と未来の力の作用は、力の平行四辺形を構成することで、結果として第三の力、つまり二つの力が衝突し作用している場を起点として合成される対角線を理念上は生み出す。この対角線の力はそれを生じさせた過去と未来の力と、次の意味で異なる。つまり、敵対する二つの力はともに起源が限定されない。過去の力は無限の過去から、未来の力は無限の未来から到来する。二つの力の始まりは不可知である。とはいえ、二つの力が衝突する点(現在)をともに末端とする。逆に、対角線の力は敵対する力の衝突(現在)をその始点とするため、その起源は限定されている。しかし、対角線の力は起源が限定されない二つの合成作用から生じるゆえ、その終点は無限となる。知られうる起源を持ち、過去と未来によって方向を決定されるが、その終端は無限のうちにあるこの対角線の力は、思考の活動様式の比喩として完璧である。(ハンナ・アーレント『過去と未来の間』訳 引田隆也 齋藤純一 みすず書房 p12)

 過去から未来へと流れる時間を一旦堰き止め、無限の過去と未来が衝突する場に、そこからのびる、過去と未来の合力としての対角線が出現している。この対角線もまた終端は無限のうちにある。しかし、何より重要なのはこの対角線は現在から離れず現在に根を持つということである。吉岡実の「静物」にあった、器とくだものによって構成された質感としての強度も夜の現在に根ざしそこから無限のほうへと力のベクトルを向けている。

 確かに、アーレントの言う通り、この対角線の力は、思考活動のイメージとして完璧である。だが、それは理念上のものらしい。演劇の上演が実践の場であるなら、この理念上の力のイメージはふさわしいものなのだろうか。

 しかし、現実の現在から、殺風景で窒息しそうないまここの現在から始めるためには、このような思考のイメージでそこに対抗するよりほかにない。

 それは知覚できないが感受するしかない演劇のスクリーンであり、生まれては消える見えないフレームである。それは、俳優の身体とその身ぶりによって象られる演劇の皮膚なのだ。その皮膚は、まさしく理念的に上演空間に生まれるのである。さらに、その皮膚の時間は現在を起源とし、過去と未来の合力としての対角線上を無限に進む。このようにして演劇の上演はこの現実の現在とは別の現在を生きるのである。それは一種の宙吊り(サスペンス)の時間であり、上演空間を複数の層をなし斜めに走る劇の光である。それはまた、演劇の現在を筋の通った心地よいフィクションの支配から解き放ち、いくつものほら話を演じて見せることである。