殺風景の対角線——松田正隆『皿の上の見えない人間』について|内野儀
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松田正隆の『皿の上の見えない人間』1は、地方の小さな陶磁器の町で働く女性二人の何ということもないやりとりから始まる。だが本作で問題になっているのは、そこに描かれる関係や生活の細部それ自体ではない。むしろ、それらを通じて立ち上がってくる、ある一つの問いである——「『皿の上の見えない人間』のためのノート」2で松田が「殺風景」と呼ぶ均質化した現在のなかで、人と人との関係はいかにして成立しうるか。本作はこの問いに対して、「共有されないまま成立する関係」というかたちで応答している。
「ノート」で松田は、佐世保から博多に向かう車窓から見える沿線の町、佐賀県有田の「よそよそしさ」から書き起こしている。松田はそこを「平凡な、あの荒涼とした感触」と呼び、「何も期待することのない場所。殺風景。それは何も地方に限ったことではない」と一般化する。資本がグローバルに均質化した結果、地方も都市もひとしく「砂漠」となり、「殺風景であること、そのさなかにあることは現在時に窒息するようなこと」だと松田は書く。本作の陶磁器の町は、その「殺風景」の劇場である。同様の認識は、近年の松田作品に通底している。『シーサイドタウン』(2021)で描かれた「凡庸なるファシズム」3、『文化センターの危機』(2023)の文化施設の民営化と地方のミソジニー4、『東京トワイライト 強盗団と新しい家』(2024)の動機なき爆破テロ5——これらはいずれも、均質化した現在のなかで人と人との関係が損なわれていくさまの異なる現れだった。本作は、その系譜のうえで、「では、それでも関係はどのように成立しうるのか」という積極的な問いに、踏み出している。
私はかつて、松田の「ミニマルな上演形式」を太田省吾の「なにもかもなくしてみる」からの〈帰還の試み〉として位置づけ、そこで物質化される〈人間という現実〉を「エアー演技」という語のもとに記述したことがある6。本稿の関心は、その〈人間という現実〉が、「殺風景」な現在においていかに成立するかの記述に重なるのである。

物理的な大道具は何もなく、表情の起伏もほぼない。三人の俳優は、これまでよりは対面的であることが多い印象だが、現実にはありえない距離で「配置」されもする。それでも俳優たちは「座る」し、「運転する」し、「お風呂に入る」。私が以前「外形的な模倣に過ぎないという軽さと緩さ」を持つ「エアー演技」と呼んだのは、まさにこの帯域のことだった。渋革まろんが『東京トワイライト』評で正確に指摘したように、ここでの身ぶりは「精密さや誇張性が欠如」しているがゆえに「曖昧さ」を孕み、「事後的・付加的に何かを意味していたことになったという仕方でしか認識することができない」7。対象は不在なのではない。共有されないまま、行為だけが成立してしまうのである。本作で起きているのは、この方法を支えとして、関係を成立させるために本当に必要な最小限のものを段階的に露わにしていく作業である。
本作のなかでスミコは、三つの異なる関係を結ぶ。それぞれの関係において、二人の人物のあいだで共有されているものの量と質は段階的に減じていく。だが、いずれの関係も、それでもなお「成立してしまっている」。
最初の関係は、スミコとモエノのあいだに置かれる。会話には二つの位相が同時に成立している。一つは、モエノがスミコを「全知の語り手」的に語り、スミコがそれに応答するという、語る/語られるの構造である。「スミコさんのスミコって、漢字でどう書くかを私は知らない」というモエノの三人称的な語りに対して、スミコは「あーだから、済んじゃってるのね、詰んじゃってるって言うのかな」と一人称で応答する。
だが同じ会話は、もう一つの位相において、紛れもなく漫才のボケとツッコミとして機能している。「アメちゃんどうぞって感じの」「じゃ、アメちゃんください」「持ってないけどさ」「持ってないんかい」。最後のモエノの一言は、関西的なツッコミの定型そのものだ。意味は共有されないのに、リズムだけは共有される。
「ノート」のなかで松田は、吉岡実「静物」を引きながら、器と果実は「溶け合っているわけではなく、それらの領分を保持しながら特異な感覚を発しているにすぎない」と書く。スミコとモエノは、まさにこの「領分を保持しながら」並置され、漫才のリズムを共有しながらも溶け合わず、張力を発している。
二つ目の関係は、スミコとパン屋のトモヤのあいだにある。第六場、トモヤは無口で、いきなり「今度、博多に行きましょう」と誘い、特急みどりからリレーかもめへ、リレーかもめから九州新幹線への乗り継ぎを律儀に説明する。モエノの語りのなかでトモヤは「ただの乗り鉄ってだけじゃないですか」と評されるが、松田はトモヤを乗り鉄に還元しはしない。天神の通りを並んで歩く二人の歩調は、「こんなにリズムの合う人を私は知らない」とスミコ自身が呟くほど、ぴったりと合う。スタバで一時間ほど話し、何を話したかは覚えていない。だが「最低賃金が東京並みになりました」というトモヤの一言だけは、奇妙に脱個人的な制度情報として記憶に残る。ここで共有されているのは、漫才のリズムですらない。歩調と、外部条件への共同の注意である。内面の交換でも、共通の趣味の発見でもない。それでも一日かけて博多まで往復し、「また」の予感を残して別れる関係が、ここに成立している。
三つ目の関係は、スミコと隣のシゲコのあいだにある。シゲコは舞台上には現れない。生まれつき身体が不自由で、配電盤のブレーカーにも手が届かない。妹一家がシゲコの貯金を経営難の店のために持ち去ってしまい、施設にも入れない。スミコは「私、棒です。シゲコさんの棒です!」と叫び、ブレーカーを上げに駆けつける。だがシゲコは結局、自死する。配電盤さえ自分で上げられない人がどうやって首を吊ったのかとモエノがいぶかしむ一方で、警察官は「人間はやろうと決めたことはやれるものだ」と奇妙な感心をしてみせる。
導入されているのは、現在の日本社会の周縁で起きている、ありふれた、しかし致命的な貧困と障がいと孤立の問題である。それ自体としては、近年の松田が反復してきた主題の系列のなかにあり、特別に新しい構図ではない。だが本作で扱われ方が特異なのは、シゲコが舞台に立たないことだ8。スミコとシゲコのあいだで共有されるのは、もはやリズムでも歩調でもない。スミコがブレーカーを上げに駆けつけるという身ぶりだけが、シゲコの不在に向かって伸びている。可視性そのものが断たれた他者との関係。共有されるものが極限まで減算された関係。それでもなお、その関係は成立してしまっている。
意味からリズムへ、リズムから歩調へ、歩調から不在へ。本作の三つの関係は、共有されるものが段階的に減算されていく系列として並んでいる。にもかかわらず、いずれの関係も「成立してしまっている」。エアー演技という方法が、この減算の極限に耐えうる余地を提供している。共有されないまま行為だけが成立してしまうという方法の特質が、ここで本作の主題そのものに接続されるのである。
そして、共有されるものが減算されていくにつれて、関係を支える媒体は、漫才のリズムや歩調を超えた、より周辺的なものへと開かれていく。本作のなかで新しく立ち上がる身ぶりは、いずれもこの拡張に応答するものとして読むことができる。
第三場と第四場の末尾に、対の場面が置かれている。深夜、モエノが一人で塩ラーメンを食べながら、「きっと今頃、スミコさんは夢を見ている。夜の沈黙のなかで、いくつもの皿の並ぶ陳列棚を前にして、一つ一つ丁寧に皿を見つめている」と語る。語りに導かれるように、スミコが舞台に現れ、皿を一つ手に取り、戻す。漫才の二人組のやりとりではない。モエノが一人で語ることによって、スミコの像が舞台上に生成する。共有されるべき相手がそばにいないところで、語りが対象を呼び寄せる。

第四場、二度目の塩ラーメンの場面で、本作で初めて音楽が流れる9。叙情的な、弦楽四重奏の曲である。モエノが再び一人語りでスミコの夢を生成する。スミコが現れて皿に触れる。だが今度はそれだけでは終わらない。スミコのほうがモエノを呼び込む——「こっちに来る?」「一緒に見る?」。モエノはスミコのほうへ行き、二人で並んで皿を見る。「澄み切った眼差しで、この皿を見ている!」とスミコは言う。語る一人と語られて現れる一人という関係が、二人で並んで皿に触れるという連帯にまで展開する、その過程全体に音楽が流れる。徹底して情緒を排してきたミニマルな空間に、ここでだけ控えめな叙情が許されるのだ。共有されないまま成立する関係のあいだに、外側から、控えめな承認が差し挟まれるのである。
戯曲段階では、この二度の塩ラーメン場面のいずれにおいても、最後にモエノが腹を押さえ、塩ラーメンによって便所に駆け込む、というオチがつけられていた。生理現象による失墜が漫才的に呼び込まれて場が閉じる構造である。だが実際の上演では、このオチが二度ともカットされていた10。連帯の瞬間は、笑いに回収されることなく、音楽の余韻のなかにそのまま残されることになったのである。
シゲコの霊は、埼玉県上尾市のイオンモールに現れる。フードコートでテーブルに乗り上がった男が「棒のようなもの」を中空に突き上げた瞬間、施設全体が停電する。「東京心霊研究所」の所長は、「亡くなられた方の行いは生前の行いの逆になります」と説明する。生前のシゲコは、自分の家のブレーカーを上げることができなかった。死後の彼女は、資本主義の最も典型的なイメージである郊外型ショッピングモールを、丸ごと暗闇に沈めるのである。
このエピソードは、寓話的な反転として読むこともできるが、それ以上に重要なのは、ブレーカーを上げられなかった身体の不能が、ショッピングモール全体の停電へと転位している点だろう。スミコとシゲコのあいだで共有されるべきだったブレーカーを上げるという身ぶりは、ここで、シゲコの死後にもなお、別の場所での停電というかたちで反復される。共有不可能な関係が、転位という方法で持続しているのである。
第八場、スミコは白骨温泉の入浴剤を入れた風呂に入る。シゲコがデイケアの人に発見されたのも、風呂の脱衣所だった。湯気のなかでスミコのほうがモエノを呼び出し、「この、もわっとした湯気が私の輪郭をかたどってるのね」と言う。第四場では、モエノが語ることでスミコの像が生成していた。ここではその関係が反転している。湯気が輪郭をかたどるという物理現象によって、スミコが自分自身を生成する側に回り、モエノを呼び込むのである。共有されるものが減算されきったところで、自己もまた、湯気のような最小限の物理現象によって支えられる存在になるのだ。
最終場、スミコは緩慢にお茶の用意をする。二度目の音楽がここで流れる。何も解決されてはいない。シゲコは戻らないし、スミコは見える/見えないの規定をすり抜け続ける。

「ノート」の終盤で松田は、ハンナ・アーレントが『過去と未来の間』で論じたカフカの寓話──過去と未来という二つの敵に挟撃される「彼」の話──を引き、過去と未来の力の合力として現在から斜めに走る「対角線」の力こそが演劇の上演の時間である、と書く11。
演劇の上演はこの現実の現在とは別の現在を生きるのである。それは一種の宙吊り(サスペンス)の時間であり、上演空間を複数の層をなし斜めに走る劇の光である。
本作が示したのは、この対角線の上に、共有されるものが段階的に減算されていく複数の関係を、それぞれの領分を保ったまま並置することができる、ということだった。リズムによって、歩調によって、語りによって、音楽によって、転位によって、湯気によって。それぞれの関係を支える媒体は異なるが、いずれも共有不可能なものを共有不可能なまま支える、最小限の支え方である。
「殺風景」のなかで、関係は完全には消滅しない。意味の交換も、内面の共有も、可視性の保証もないところで、それでも関係は、何か最小限の媒体によって支えられて持続する。本作が示したのは、この弱い、しかし持続する関係の像である。器と果実が領分を保持したまま張力を発するように、複数の関係は最後まで溶け合わない。だがそのあいだを、二度の音楽が静かに横切っていく。共有されないまま成立する関係のなかに、控えめな諧調が、たしかに走っているのである。
- マレビトの会『皿の上の見えない人間 Invisible woman on the plate』、作・演出:松田正隆、出演:生実慧/西山真来/廣瀬もえ、2026年3月19日-22日、SCOOL(東京・三鷹)。以下、戯曲からの引用はいちいち頁数は示さない。 ↩︎
- 松田正隆「『皿の上の見えない人間』のためのノート」、マレビトの会公式サイト掲載、2026年3月18日(https://www.marebito.org/)。以下、「ノート」と略す引用はすべてここによる。 ↩︎
- 『シーサイドタウン』の主題が「凡庸なるファシズム」であることは、松田自身が以下のように述べている。「ともすると地方ではそういった、凡庸としたファシズム的な考えが、白昼堂々勃発し、『微蔓』『偏在』しているのではないかと思うようになり、そのことを顕在化できないかと考えたんです」(松田正隆へのインタビュー、ステージナタリー、2020年12月、https://natalie.mu/stage/pp/rohm5th03)。劇評では、森千香子が次のように要約している。「『海辺の町』二部作は、『外国の脅威』が生活に浸透することが、隣人や身近な人間への疑いにもつながっていくという『日常のファシズム』の閉塞感を淡々と描きだす」(森千香子「不安の海——共同体の崩壊とファシズム、そこからの逃走線」、ロームシアター京都「Column & Archives」、2023年6月15日、https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/review_matsuda2022_mori/)。 ↩︎
- 『文化センターの危機』の主題について、松田自身が次のように語っている。「前回は『凡庸なるファシズム』をすごく意識しましたが、今回はもうちょっとサラッと書こうかなと。でも地方に行くと感じる、男性と女性のあり方というか、明らかにはびこっているミソジニーのようなものを、顕在化させたいという思いはありました」(松田正隆へのインタビュー、SPICE、2023年2月14日、https://spice.eplus.jp/articles/314586)。同インタビューで松田はさらに、「今は地方がどんどん荒廃していくというか、グローバリゼーションとか資本主義社会の必然として、どうしようもなく平準化していくってことが起こっているわけで」「マイノリティや弱者をどう包摂していくか? という時に、どうしても見落とされる問題は常に出てくる」と述べている。劇評では、懶い「松田正隆 海辺の町 二部作『シーサイドタウン』『文化センターの危機』公演評 パントマイム/パラノイア」(ロームシアター京都「Column & Archives」、2023年4月15日、https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/review_matsuda2022_monoui/)が、「『文化センターの危機』は、民営化にあたって職員の大半が解雇されることになっている文化センターの面々のキャンプ、そしてコンビニでアルバイトをしている高校生である里岡の生活を物語る。コンビニで万引きをする無職の杉田は、ふだんは港で密航者を見張っている」と要約している。 ↩︎
- 『東京トワイライト 強盗団と新しい家』の主題については、座・高円寺による作品解説が「この劇は、『夫婦が新しい家を建てる話』『強盗団が強盗をする話』『仕事を解雇された女性が爆発物を製作する話』の三つが併存して進行します」と記している。渋革まろん「〈ポスト欲望の人間〉とリテラルなものの露出──座・高円寺CTAラボ『東京トワイライト ー強盗団と新しい家ー』」(座・高円寺CTAラボ note、2024年6月13日、https://note.com/za_koenji_cta/n/nf8eaa926539f)が、「強盗殺人はまだどこかしら人間らしさを残しているように見えるのに対して、女が起こした爆破テロは非人間的なものに見える。その理由は単純で、爆破テロはいわゆる『動機なき犯罪』であるからだ」と分析している。 ↩︎
- 内野儀「松田正隆論を書く前に──『シーサイドタウン』とその先」、ロームシアター京都「Column & Archives」、2023年2月10日公開(https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/column_matsuda2022_uchino/)。「エアー演技」の語は、高嶋慈が村川拓也『事件』(2021)評(https://artscape.jp/report/review/10169261_1735.html)で「動作をエアーで行なっている」と記述したことを踏まえ、松田演出に応用したものである。 ↩︎
- 渋革まろん、前掲。 ↩︎
- 不在の登場人物ということで、作者・松田正隆に聞いてみたところ、次のような応答があった。「確かに今回のシゲコのように意識的に不在の人物を設定したものは近作にはなかったと思うのですが、ロームシアター『シーサイドタウン』での、主人公シンジのいとこのムツミという人物は不在性(世間から排除された不可視の人物)があるかなとも思います。花火大会の日、トノヤマから海に突き落とされ、関係を結ぼうとして逆にナイフでトノヤマを刺すことになる人物です。この二人の人物(シゲコとムツミ)は戯曲を書いた私にとって劇の核心(最深部?)に存在しており、あまりに身近で生々しさがあってとてもじゃないけど、上演として登場させることができませんでした」(松田とのメールによる応答からの引用、2026年5月9日受領)。 ↩︎
- 上演の冒頭でも音楽が流れるが、ここでは実際に物語が始まってからという意味で、「初めて」という表現を使っている。なお、流れた曲はドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調作品10である。 ↩︎
- 戯曲第三場および第四場の末尾に置かれた、モエノが深夜の塩ラーメンによって腹をこわし便所に駆け込むというオチは、本番ではいずれもカットされている。この点について、既出の応答で松田は、「ご指摘の通り戯曲にあったモエノがお腹を壊しその場を去るという動きは稽古の段階でカットしました。特に二度目の塩ラーメンを食べるとお腹壊すと言ってモエノが去って行くシーンは実際にやってみたら、どうしてもこの場面に『はまらないな』と判断しました。結果、この場面のオチになって場面を区切らないでシームレスに次のお店の場面に移行することになったのはよかったと思ってます。ただ、塩ラーメン食べてお腹壊すっていう馬鹿馬鹿しさのようなものが消えたのは残念ではあります」と答えてくれた(同上)。 ↩︎
- ハンナ・アーレント『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房、p.12。松田は「ノート」のなかでこの箇所を引用している。 ↩︎
内野 儀 Tadashi Uchino
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授、学習院女子大学教授を経て、2026年4月より学習院大学教授。東京大学名誉教授(2019)。専門は表象文化論(パフォーマンス研究、日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。東京舞台芸術祭実行委員会委員、公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌(ケンブリッジ大学出版)編集協力委員。