『皿の上の見えない人間 Invisible woman on the plate』を観て|関田育子
- テキスト
染みついた「よそよそしさ」からはじめる
上演前に配布された文章のなかで、松田は佐賀県有田町との出会いについて触れている。しかしそれは、土地との親密な邂逅としてではなく、むしろ「よそよそしさ」の感覚として語られる。陶磁器店が並び、煙突の立つ町並みを前にしても、そこには容易に感情移入できるような「地方らしさ」はない。松田は、その距離感を通して、自らが場所に何らかの期待を抱いていたことに気づく。
そしてその感覚は、有田という土地だけに向けられたものではない。均質化された風景が広がる現代において、場所そのものへ固有の意味や特別さを期待すること自体が、すでに困難になっている。だが松田は、「殺風景」さを無理に乗り越えようとはしない。むしろ、白い壁や冷たい器の手触りのような、容易には馴染まない感覚から上演を立ち上げようとしている。
時間の裂け目の出現と「語り」
今回の上演では、これまでの松田作品とは少し異なる方法が取られていた。それが「語り」のテキストの導入である。ただし、それは抒情的な独白や、状況説明としてのナレーションとは異なる。主にモエノ(時折、別の登場人物スミコさん)によって語られるその言葉は、物語の内部で起こっている出来事や、その後日談、あるいは登場人物の主観を淡々と繰り返し語っていく。しかし興味深いのは、「語り」が始まった瞬間、それまで役柄として存在していた俳優の身体が、わずかに別の時間を帯び始めることだった。
それまで現在進行形で流れていた場面が、「語り」によってすでに過去の出来事のようにも見え始める。逆に、まだ起きていないことが、すでに記憶されていることのようにも響く。そのたびに、観客が何気なく受け取っていた物語の流れは一度立ち止まり、別の角度から照らし返される。そしてその感覚が薄れ始めた頃、再び「語り」が挿入される。この反復そのものが、今回の上演のリズムを形作っていた。
重要なのは、この「語り」が俳優の身体から発せられているという点である。語り手は単なる説明者ではなく、同時に役柄を生きている俳優でもある。そのため、「語り」は舞台の外側から物語を整理するのではなく、役を生きている身体の内部に、別の時間を差し込むように現れる。演劇には、俳優の身体、役柄、テキスト、空間など複数の層が存在するが、この上演では、それらが綺麗に統合されるのではなく、むしろ微妙なズレを保ったまま共存していた。その緊張が、舞台上に独特の時間感覚を発生させていたように思う。それは松田が言う「別の現在」――過去と未来が衝突する場所としての現在――に近いものだった。
上演開始直後の約3分間も印象的だった。舞台上に設置されたスピーカーから、ドビュッシー《弦楽四重奏曲ト短調Op.10》第3楽章が流れ続ける。しかし、そのあいだ舞台上には俳優は現れない。白い壁と床、左端の出入口だけが静かにそこにある。照明変化もなく、舞台装置もない。ただ3分間、音楽だけが劇場空間を満たしていく。
その時間のなかで観客は、単に音楽によって感情を喚起されているのではなく、劇場空間そのものの感じ方がゆっくり変化していく過程を経験していたのではないか。バシュラールは『空間の詩学』のなかで、詩的空間とは「われわれを感情現象のなかに監禁しておかぬ一つの空間」であると書いている。(ガストン・バシュラール、岩村行雄訳『空間の詩学』、思潮社、1969年、340頁)ドビュッシーの音楽もまた、感情を直接説明するのではなく、劇場空間そのものの質感を変えていたように思う。その数分間は、これから到来する俳優の身体や虚構を観客が受け入れるための準備だった。
バシュラールはさらに、ジョー・ブスケの言葉を引用しながら、「樹木のなかでは空間は巣箱のなかの蜜のようだ」と書いている。(同書、341頁)ここで語られる「蜜」は、単なる内容物ではない。むしろ、樹木の内部からゆっくりと空間を膨張させていく、見えない力として存在している。
ここで思い出されるのが、上演前に配布された文章のなかで松田自身が引用していた、吉岡実の「静物」である。吉岡の詩における「夜」もまた、静止しているはずの器や果実の内部に、見えない運動や緊張を発生させる契機として現れていた。この上演においてドビュッシーが流れていた時間もまた、そうした「蜜」や「夜」のように、劇場空間の内部がゆっくりと変質していく時間だった。

「殺風景」からの脱却
終演後に純粋に面白かったと感じることができた。が、何が面白かったのかと問われるとすぐに言葉にできなかった。感覚のすべてを言語化することが善いとも可能であるとも思っていないが、もし同じような状況に陥った人が他にもいたならば、その後鼻香だけでも共有したい。
終演後の感覚を例えるならば、マンションの上層階から道を眺めているときに、全く知らない人がそれぞれの事情で、通過する。一台のバイクがマンション下の路肩に駐車し荷台から、ビニール袋をだす。そして、マンションに入っていく。マンションの誰かがフードデリバリーを頼んだのだろうと想像ができる。するとまた別の道から誰かがやってくる。携帯を見ながら歩いているからか、顔だけがぼんやりと照らされている。その横の駐車場を野良猫が走る。遠くから踏切の音が聞こえる。なにも関係のない人、猫、ものがそれぞれに活動している。さらに、その奥にはたくさんのビルが、上には飛行機の航法灯がチラチラ見える。特別でも歴史的なことが起こるわけでもない。瑣末だと言う人もいるような景色だが、なにも因果関係のないこれらの「起こり」になんとなく嬉々とする自分がいる。もしこれが、一つのシナリオに回収されたとすれば、それほど無念なことはない。
上演中にも各々の「起こり」があった。それらは演劇であるために用意されたものではあるが、そのことから逸脱しようと動いているようにみえた。つまり、上演中に発生するあらゆることが互いに支配することなく、単なる「さわり」「さわられ」としてある。そして、それが成立する場には、物事の隆起がある。到底、「殺風景」とは思えない。だから、面白かったのだ。
奪わない距離から見えるもの
ペドロ・コスタは、あるインタビューの中で、映画を誰のために作るのかについて次のように語っている。
「――工場現場やレンガ工場やさまざまな労働において使い果たされた移⺠たち、あるいは低所得者や麻薬中毒者である彼らを撮り続けている動機はどこにあるのでしょうか。
私が彼らに出会って動けないだけではなく、彼らも私と出会って身動きがとれなくなっているのです。私の仕事は映画を撮ることだけではありません。それだけでは十分だと思えないのです。この映画は彼らのために作られています。そして、そのことを彼らに証明してみせなくてはならない。そうしなくては、映画もまた彼らから奪うものになってしまいます。(中略)映画は本来、路上で生まれ、工場で生まれ、牢獄で生まれたものです。そこにいる人たちのためのものであって、その人たちから収奪するものであってはいけない。」
(『neoneo』2021年、ペドロ・コスタ インタビューより)
ペドロ・コスタは、映画が被写体から「奪うもの」になってしまう危険について語っている。そこには、他者を分かりやすいイメージや物語へ回収してしまうことへの強い警戒がある。この上演を見ていると、その感覚を思い出した。俳優の身体や「語り」は、観客が簡単に理解できる意味へと整理されることを拒んでいたように思えたからだ。
たとえば、「語り」は登場人物を説明するために現れるのではない。むしろ、役柄として存在していた身体に、別の時間を差し込むように立ち現れる。そのたびに、観客が何気なく受け取っていた物語の流れはわずかに揺らぎ、人物や出来事は、全貌として理解しきることを目的としない存在で舞台上に残される。
そこで問われているのは、「何を伝えるか」よりも、「どのように存在しているか」ということなのだろう。俳優の身体、言葉、音楽、空間、それぞれが互いを支配したり説明したりすることなく、ただ触れ、触れ返すように存在している。距離が消えるわけではない。しかし、その冷たい距離が残ったまま、微弱な接触だけが繰り返されていく。その瞬間、見慣れた風景は、ほんのわずかに別の顔を
見せ始める。

戯曲と上演のあいだに
私は戯曲を評価する術を知らない。しかし、この作品については、上演だけでなく戯曲そのものにも何か言葉を添えたいと思った。
戯曲を読んでいると、誰かの生活の断片に偶然触れてしまったような感覚がある。おそらくそれは、「語り」の存在によるものだ。台詞によって進行していた時間が、「語り」によってたびたび引っ掛かり、うまく前へ流れていかなくなる。そのたびに、いま読んでいた場面とは別の時間や別の視点が差し込まれる。紙面上の出来事であるにもかかわらず、そこには上演時にも感じられた「時間の裂け目」に近い感覚があった。
また、この作品において印象的だったのは、「見えない」ということの扱われ方だった。透明人間という存在は、単なる比喩や設定として置かれているのではなく、むしろ、直接見ることのできないものをどう受け取るかという問題として現れていたように思う。後半、シゲコさんにまつわる出来事が、本人不在のまま語られていくことにホッとした。もしそこに本人の姿が全面的に現れていたなら、その悲劇はあまりにも強く受け止められなかったかもしない。なぜなら一つの感動や説明へ回収されてしまうからだ。しかしそのようなことは決して起きない。なぜなら、われわれ観客はシゲコさんやその家族についてそれほど多くをしらないのだ。
この作品では、「見えないこと」そのものが重要だったのではないか。透明人間や心霊現象といった出来事もまた、単なる幻想としてではなく、容易には触れることのできない他者との距離を示すものとして存在していたように思う。
関田 育子
演出家・劇作家。
2019年に演劇ユニット[関田育子]を設立。以来、俳優の身体と劇場空間を観客にとって等価に立ち上げる「広角レンズの演劇」を提唱し、その考えをもとに作品制作を行っている。
2023年、『micro wave』で「かながわ短編演劇アワード2023」大賞・観客賞を同時受賞。
2025年10月より、劇場空間に広がる“ふるえ(vibration)”や観客同士の感覚の響き合いに着目した「ヴァイブス演劇」を新たに提唱。
演劇ユニット[関田育子]公式サイト:https://www.sekitaikuko.com/