「凡庸を載せる器」『皿の上の見えない人間』劇評|魚田まさや
- テキスト
上演の間、登場人物の人たちはよく食べる。コーヒー、塩ラーメン、ビール、見えない何か。
思い出したのは私が小学生の頃、学習塾の休み時間に食べていた弁当のことだ。真っ白い壁に囲まれて、煌々とした光の下で、つるつるのメラミンの勉強机で食べる早めの夕食。室温の米に移ったゴムの匂い。青いふりかけ袋に「ワンピース」のキャラクターが描いてあって、それが不意に恥ずかしくて裏返したこと。隣の席で算数が得意なサキヤマヒロキくんが消しゴムか何かを机の端のゴム部分に擦り付けて臭いを嗅いでいる。なぜ自分がここにいるのかすら根本的にはわからず、海も丘もないニュータウンに塾だけがぽっかり浮かんでいた。
作中には仕事終わり、一人で食事するシーンがある。誰かと一緒にコーヒーを飲むシーンもある。現実の私たちの飲み食いにもたくさんのシチュエーションがあって、意味合いも無限だけど、上演の飲み食いの場面はどんなシチュエーションを表象していようがすべてがどうしても、あの塾の夕食性を帯びつつ私に感受される。
上演が進む。飲み食いは繰り返し現れては消えていく。
それらは他の場面と薄く広く繋がっていて、劇全体もまた飲み食いのようにそっけない。
そのそっけなさ。その平滑を美しいと思った。
この平滑、奥行きのないそっけなさは私という一人の観客が劇から受ける記述不能な印象であると同時に、この作品が持っている方法でもある。方法としての平滑は、いないいないばあをしない態度と言い換えられるかもしれない。
外界に笑みで反応を返せるようになった新生児でも、ある段階まではいないいないばあで笑わない。この遊びは「今は見えないものがある」という時間的・空間的に奥行きを持った世界観を備えてはじめて楽しめる。顔が奥に隠されていて、それがやっぱり現れるから嬉しいのだ。新生児にとっていないいないばあは、おそらく平面的で均質な形の変化としてのみ感じられている。
成長した私たちは全てを奥行きあるものと考えるまでもなく解釈していて、とりわけフィクションにおいては本当に多様な切り口で、結局奥行き感とその展開を楽しんでいる。フィクションを楽しむ時、私たちはほとんどいないいないばあを楽しんでいるんだと思う。でも、この作品は明らかにそうでない方法で演劇を立ち上げていた。

まず、この上演においては語り手が特別な役割にならない。
モエノがスミコさんについて横並びに生きていては知り得ないはずのことまで知っていて語る。しかしモエノは多くの作品の語り役がそうであるように、ナレーターとして「劇の世界」と別の層に保護されることがない。この作品は、本来見えないはずのスミコさんの生活が見えてしまっているモエノを、たとえばソーントン・ワイルダーの『わが町』に登場する舞台監督の立場に置かない。
モエノがスミコさんについて語る。スミコさんはしばしば、たった今モエノが自分について語った、その語ったという事実自体を巻き込んではなしをする。スミコさんがモエノの語りに並走するように一緒に語り始める場面もある。すると、一方的に相手を見て描写する役割を担いかけたモエノは、進行する演劇から放たれる菌糸めいた膜にとらわれ、他の人々と一緒くたの、たった一つの劇の平面に位置するものとなる。
たとえるならそれは、漫画のフキダシが壊れるようなものだと思う。フキダシの中にはセリフだけでなく、独白やイメージも描き込まれる。フキダシで囲う必要があるのはそれが「劇の世界」で現実に起こっていることと別の層に位置することを表現しなくてはならないからだ。もしも誰かが誰かを想像しているシーンのフキダシがパチンと消えてしまったら、そのコマには現実も想像もない、二人の人間がただ並んでいる奇妙な風景になるだろう。
そして一度でもそれが起こってしまえば、その後にフキダシめいた形が現れても、もう私たちの方がその約束事をうまく受け入れられない。観客は見えているもの/隠されているものという立体視を諦めて、劇空間をただそれだけのもの……ダイソーに陳列された110円のプラスチックトレーのような、役と形が全て見えてしまっている状態としてのただそれだけのものとして見ることになる。
そしてこの作品は、多くのフィクションのように見えないものが劇を進める力を持たない。
たとえば私が過去に書いた作品の序盤に次のようなやりとりがある。
場面は夜、夫婦の住むマンションのキッチンという設定。
璃理子:働くの……働くの?
喜孝 :何が?
璃理子:金子あすかさん。
喜孝 :わかんない。
璃理子:ふーん。
この短い対話は見えないものが力を持つつくりになっている。
璃理子と金子あすかは高校時代親友であったが、さまざまな事情が重なってその関係は苦い破局を迎えている。しかしずっと時間がたった現在、あすかが突然夫の職場に就職してきて、少しずつ璃理子に接近しようとしてくる……というおはなしだが、この場面は璃理子とあすかが単なる昔の知り合いではないんだなということを観客に推測してもらう最初の機会になっている。本当にどうでもいい人間であったら働くかどうかなど確認しないはずで、とりわけ「ふーん」という発語の瞬間に興味のないそぶりとは裏腹の内的な葛藤、今はまだわからない事情をこの人物が抱えていることを観客は感じ取り、想像する。要は謎めいているのだ。観客にその謎めきに興味を持ってもらうことを通じて、劇の進行に積極的に参入してもらおうという意図がある。劇の方もその期待に呼応するように、謎がさらなる状況を呼び込み、過去の事情が明るみになりつつ事態も人も変化していく。
一方『皿の上の見えない人間』はこうした謎が謎を呼ぶつくりをしていない。モエノとスミコさんの関係はモエノが語った通りバイト先の同僚で、過去にも未来にもそれ以上のおはなしはないし、演技も平明で含みを持たない。トモヤくんとスミコさんの関係に変化の期待(恐れ)を一瞬抱くけど、それもまた、主にトモヤくんの言動のすさまじい取るに足らなさによって霧散する。
終盤に触れられるすごい謎っぽい心霊現象に至っては、突如現れた専門家によって即刻理由づけがなされ、謎は突然の東京心霊研究所くらい軽い存在になる。
特に私がはっとしたのはスミコさんがバイトを辞めた後、入浴中の彼女がモエノと出会うシーンだ。これ以前の場面で、モエノはスミコさんについて「私たちには見えない人間」「透明人間」と言う。ここでの「透明人間」は明らかに比喩としての透明人間なのだが、入浴中のスミコさんとモエノが出会うシーンでは、スミコさんは物理的に体が透明な、本当の意味での「透明人間」として自分自身を捉えている。
物理的な意味での透明人間に比喩の孕む奥行きはない。意味の二重性やゆらぎと捉えるには二つのニュアンスはあまりにも平たく横並びで、その場面でのモエノの他人の風呂場にいるとは思えない図々しさも相まって、この劇においては見えるものが見えるし、見えないものはないのだということを衝撃と笑いと共に感じた。いないいない…で手をどけたら顔ではなくぽっかりと青空が広がっていたら、やっぱり同じように笑うだろうなと思った。

見えないものが力を及ぼさないこの作品は、そうでない作品のような積み上がってゆく一本の背骨を持たない。隠されたものへの期待をやめた目に、描写が無数に積み重なって何の象徴もやってこない。この作品全体を、泡の塊や、ランナーで殖える植物のような形として私は捉えた。それはやっぱり飲み食いに似ていて、生を送る凡庸な日々に似ている。
見知らぬ他人の日記を読むのが好きだ。どこに住んでいるのか、どんな顔をしているのかも知らない他人の、展開せずに積もっていく些細な瞬間。網戸についた水滴を消しゴムを投げつけて一気に落としたこと、水族館で子供が泣き始めたこと。それら無数の凡庸は私からはるかに遠く、文章の形で閉じているためにようやく感じられる。人間の生は凡庸の途方もない集積で、それがひとつひとつ鮮やかで、こんなにも捉えるのが難しい。
きっと私がこの上演に感じた美しい平滑も、凡庸をこぼさず捉えるための器の役を担っている。上演が表現する全ては均一な劇の地平に示される。その中には孤独な夕食も夢も、スミコさんがおばあさんへ差し出す日傘もある。それら全てはそっけなく現れては消えて行き、だからこそ私はそこに、たしかな明るさや温かさを感じたのだった。それは100均のトレーにはない、人間の生の凡庸の温かさだ。
魚田まさや
劇作家。立教大学大学院映像身体学研究科前期課程修了。主な作品にuni「すみだ川ラジオ倶楽部 川を流れる七不思議編」(演出:阿部 健一 2022年)、イエデイヌ企画「エリカによろしく」(演出:福井歩 2023年)など。