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マレビトの会「皿の上の見えない人間」について|桜井圭介

  • テキスト

目の前に立つ俳優/キャラクターの位格、その「可視性」「不可視性」「判別のし難さ」
この「演劇作品/上演」の時制/場所の自在さ
虚実の判別のし難さ

(この上演は驚くべきことに満ちている。それがいかに尋常ではないかを取りこぼすことを避けるために、この文章も煩雑にならざるをえない。あらかじめお詫び申し上げる。)

撮影:西野正将

白い壁、何もないがらんとした空間に、正面を向いた2人の女性が並んで立っている。冒頭しばらくの間、上手側の一人だけが発話。「スミコさん」という「誰か」のことを話している。

「スミコさんのスミコって、漢字でどう書くかを私は知らない」「墨で書いたように暗いからよ、とスミコさんが言ったことがある」

「と言ったことがある」と発話された瞬間、それまで隣でずっと黙って前を見て立っていた下手側の女性が突然、横を向いて隣の発話者を見る。しかしまだ2人の関係はわからない。発話は続く。内容はスミコさんのことだ。

「それほど性格が暗いとは思わないけど、明るいわけでもない」 「いろんなことが、もう終わっちゃっててー、とスミコさんが言ったことがある」

そして、再び「とスミコさんが言ったことがある」という発話に隣の女が反応する。「え?」という初めての発語。するとそれまでずっと一人で前を向いて話していた(誰に?)女性も、隣からの突然の「え?」に反応して初めて隣の女性を見て「え?」と返す。ここから下手側の女性の発話のターンが開始するのだが、その内容は、それまでの「スミコさんについて」を承けたものであり、なおかつその主語は「私」であることから、ここでようやく彼女が話題の人物「スミコ」であることが判明する(この時点ではまだ発話者の名前はまだわからないのだが、ある時点で「モエノ」という名であることがわかる。煩雑さを避けるためにこれより先は「モエノ」と書く)。

これを文章(小説/エッセイ)だとすればどうだろうか?上手側の女性が書き手=語り手として、スミコという知り合いのことを「書いている=叙述している」、そしてその、スミコさんの思い出を「過去」のこととして振り返っている文章に、(A) 「スミコさんが〜〜〜、と言った」(間接話法)、(B)「スミコさんは「〜〜〜」と言った」(直接話法)があり、そしてこれは「演劇の上演」なので、上手側の女性(モエノ)が書き手かつスミコの知人を演じていて、(B)のカギカッコの中の発話の「実体化」として、下手側の女性(スミコ)が存在している、ということになるのだろうか。
この場合、
・文章/劇は「過去」のことを「今ここ」(紙の上/上演会場)で語っている。
・語られる人物=スミコは「カギカッコ」内=演劇空間内の発話で、過去を現在に再生(生き直し)、つまり「表象=再現前」している。
と、さしあたってそのように言えるだろうか。

しかし、前述の「え?」「え?」の箇所の、最初のスミコ(役)の「え?」は、間接話法による「過去」の会話の想起=叙述に対する反応であり、それが可能なのは、「過去」に書かれた文章を読んでいる「読者」がそれを目にした「今」の反応としての「え?」であり、書いている今と読まれる今が異なる時間にあるところに、さらに読者の「え?」に作者が「え?」と反応するならばその時はいつなのか?
もちろん小説には、一人称の叙述中に作中人物が外部(別の時間、別の空間)から闖入する(注釈が差し挟まれるように)ような奇妙な事態が起こる「メタ・フィクション」という方法があることは知られている。
これを演劇の上演として考えるならば、ある一人の女性(モエノ)の過去想起=モノローグ/叙述が遂行されていく舞台上に、モエノの頭の中にあって想起の対象なので当然そこ(脳内の外である自分の横)にいるはずのない(しかし上演の最初からずっと隣に立っていた)スミコが突然姿を顕し声を発した、という事態(への驚きの「え?」)だと考えることもできる。
この芝居全体のフレームが、モエノの「想起ー叙述の遂行」であるとするならば、舞台上に立つスミコは想起対象を可視化したイメージ・像的な存在という位格、ということになるだろうか。ところがそれが突然に実体化したかのように動き出したのだ、と今はとりあえずそのように了解しておこう。

撮影:西野正将

実体化/可視化されたスミコが、スミコという自分の名前のことをひとしきり語る。「あーだから、済んじゃってるのね、詰んじゃってるって言うのかな、終わって ていろんなことが、なのでスミコ。それに、隅っこのほうの町に住んでるし。……スミコ、 そうね、私にふさわしい名前だと思うよ」

スミコの名前に関するモエノの想起ー叙述/発話が再開する。「結局、漢字のことは、わからなかった」「スミコさんという名前の字面がわかったからといって、何かが変わるだろうか。スミコさんの何かが、深まったり、輪郭が確かになったりするだろうか」「スミコさんの何か。……スミコさんの何かってなんだろうか」

それで隣にいることが既にわかっているスミコに向かってついに「スミコさん」と呼びかける!「スミコさん」「はい」「スミコさん」「はい」「スミコさんの中身ってどうなってます?」「え?中身?」と、こうして2人の「会話」が始まる。ていうか、それは「モエノとモエノの脳内のスミコの会話」なのか? モエノの想起の叙述内における過去の会話の再現なのか?その可能性もある。
やがて、会話は「今日はヒマですね」「今日も、だけどね」と、あきらかに過去時の再現を現在形で「演じる」のだなここは、と了解しうるシーンへとスライドする。ところがここでも途中で一箇所、いきなりスミコが選択的夫婦別姓の話を始める。つまり過去にそのような会話があったのだなと思いきや、これを承けた女性の台詞は「と、スミコさんは言っているように感じた。気のせいだろうか」って、どういうこと? 過去の会話中にモエノがスミコの内心をそのように想像した、ということか?つまり、やはり舞台上のスミコはこの劇におけるモエノの想起ー叙述に登場するスミコが実体化/可視化された存在であり、都度モエノの脳内の「想起/想像」の存在として発話する、ということなのだろうか?
だがこの後続く会話はどう考えてもスミコの「選択的夫婦別姓に関する話題」から転回した内容で、だがモエノの受け答えからはどうも実際の会話の再現であるよう聞こえる。モエノが脳内で「スミコさんがそう言っているように感じた」内容から繋がる会話である理由は、その会話もまた「想像の会話」だという可能性もあるだろう。そしてその時制は想起ー叙述中の現在時かもしれない。ひぇーーーー!
ということで、この冒頭のたった数分間のうちに、目の前に立つ俳優/キャラクターの在り方・働き、その「可視性」「不可視性」「判別のし難さ」、そしてこの「演劇作品/上演」の時制/場所の自在さ・融通無碍であることには呆れ返るというか眩暈がするのだが、劇は涼しげにスムーズに淡々と進行していくのであった(実際、この文章の記述のうち半分は事後的な考察によって得られた反省的な理解に過ぎないのだし)。

続く第二場は比較的プレーンな(?)構造で、モエノの運転する車に乗った車中で、以前2人で喫茶店に行った時の思い出話が交わされ、その際、別の場所=喫茶店での会話が再現され、また車中に戻る、という感じ。ちなみに、このシーンの車中での会話でのスミコの「モエノさん、歩くの遅いよね」という一言で初めて「モエノ」という言葉が発せられ、彼女の名前がわかるのであった。上演が始まってから10分以上経ってからようやく「主要人物」に名前が付く。そして、この段階でもいまだにあれやこれやよくわからないことだらけで、この後、ゆっくりとだが次第に焦点が合ってきて最初からそこにあったのだけれどぼんやりしていた事物のかたちが見えてくる(のだろうか?)。そういう上演なのだ、この劇は。
この第二場では、車に乗り込む、運転する、車中で並んで会話する、喫茶店でコーヒーを飲む、といった「アクション」が進行するのだが、そこには車もハンドルもシートもなく、喫茶店のテーブルも椅子もコーヒーカップもない。その何もない状態で、存在しない(見えない)車のドアを開け閉めし、ないシートベルトを締め、ないハンドルを握り、ないコーヒーカップを持った手を口元に近づける。これらは「マレビトの会」ではお馴染みとはいえ、きわめて特異な「無対象演技」である。この演技法は、ハンドルを回すような身振りをするので、ああ今道路を曲がったのだな、と観客が「察する」ことで成立するわけだが、それはあくまで推察、想像でしかない。そもそも「両腕を前に出して軽く握り拳を作る」身振りが、「ハンドルを握る」ではなく「喧嘩する時に構える」である可能性もある(そもそも車のシートがなく演者は立ったままなのだし)。このマレビトの会の「無対象演技」は、じつは、目の前で行われている行為が何なのかを暗示的に表象するための方法であるより、むしろ対象を、かたちが判然としない状態、くっきり見えたかと思えばぼやけたりと焦点が定まらない、輪郭線を引かれていない、いわば「朦朧体」として提示することが本当の目的なのではないだろうか?いや、そうではなく、ぼやけてよく見えないということと同じくらいバチっと焦点が合い「見えた!」という瞬間があることも重要なのだ。その「見えた!」は誤認、見間違いかもしれないが、たしかにそうであると確信する瞬間があることは、かけがえのない体験だ。その次の瞬間に「あ、違ってた」がやってくるとしても。話を戻すと、この「身振り」における「無対象演技」という方法の持つ「確定しがたさ」が、遂に今回の『皿の上の見えない人間』で、発話におけるナラティヴのレベルでも展開している、ということを指摘し得るのではないか、と。

続く第三場では、また新たな叙法が登場する。スミコが舞台中央に登場し、その場で腕を振り足を上げ下げしジョギングのような動作をはじめる。モエノが舞台に入り、スミコのほうを見ながら彼女の周囲をゆっくり歩き「スミコさんは、毎日、皿山公園の外周を三周走る」と語りはじめる。ということで、ここは、スミコから聞き及んでいた毎朝のジョギングという話を、モエノが実際に見たことのないスミコのジョギング姿を「想像」しながら語るシーン、ということなるだろうか。スミコの走りを思い浮かべながら(つまり舞台上のスミコの走りを眺めながら)「一周目は、割といい感じだ。二周目で、しっかり息があがって来る」と描写するモエノ。すると、続いて「三周目には、息がぜーぜー言う」と今度はスミコ自身が走りながら発話する。「足もふらつく」と自分でいいながら少しよろけるスミコ。つまり、ここでモエノの語りの中の「作中人物」が「自分の行為を叙述する」という事態が出来しているのだ。考えてみれば驚くべきことだが、一繋がりの行為の途中でそれを語る主体だけがスルリと移動するので不自然さを感じる隙がない。
スミコがジョギングの足を止めたその時、もう一人のパフォーマー(男性)が登場する。スミコが「あ、草笛おじさん」と言うのでその男は公園でよく出くわす「草笛おじさん」だ。おじさんが口笛(でなはく「ピーピー」という口笛のオノマトペなのだけれど)を吹き、それに耳を傾け、一緒にメロディを口ずさむスミコ。のバックにナレーションのように被さるモエノの語り。「そうなると、三周目は、ま、いっかってなって、草笛おじさんの草笛を理由に、今日は二周でまいっかってなることがちょいちょいある」。
「佇む2人の人物」という情景の「絵」にナレーションと音楽(草笛&ハミング)が付加されている、という「映画的」な感触が感じられた(その場で演者が人力で立ち上げる「シーン15「ほっこりする場面」、的な)。
モエノが、スミコから聞いた話でスミコの行動を思い浮かべながら描写するシーンが続く。ジョギングから戻りシャワーを浴びるスミコ、出勤のためにカバンを肩にかけドアを開け家を出るスミコ。
ドアを開けると向かいに住む「シゲコさん」もちょうど出てきたところで、スミコは「おはようございます」と挨拶する、のだけれど、シゲコさんは舞台には登場しない。つまり、シゲコさんがそこいる体(てい)での無対象演技。ところで、これは今、スミコから聞いた話を元に、モエノが「スミコとシゲコさんのこと」を語っているわけだが、なぜ、シゲコさんは舞台に登場しないのか?「草笛おじさん」は俳優の体で演じられたのに(過去のマレビトの会の舞台でも、この上演においても、店の客や電車の狭い通路でぶつかりそうになる人など、一瞬登場するエキストラ的な「通りすがりの人」の場合は無対象で処理されることが常だったのに、台本に配役として役名が書かれるような重要なキャラクターであるにもかかわらずシゲコが無対象であることは、留意するべき点だと思われる。が、それがなぜなのかがまだわからない)。
シゲコさんと並んでバス停へ。体が悪くて腕を上げられないシゲコさんのために、雨の日は傘を差してやり、晴れの日は日傘を、とモエノは語り、スミコは見えない傘を差すように腕を上げる身振り。とモエノがいきなり「えっと、それは、今、傘ですか日傘ですか?」と尋ねる。何が起こっているのか? 「今」とはいつの「今」なのか? スミコはスミコで平然と「日傘です」と答える。無対象演技(というお約束)で進行しているので、観客に傘が見えないのはそうだけど、語り手にも傘は見えていない、というのはおかしい。語り手の脳内で想起=見ているイメージが舞台上に可視化されているはずなのに、「観客には見えない傘」は、じつは文字通りの意味で見えない傘(傘をさしている「体」である)なのであり、それは日傘か雨傘かが語り手にもわからない・見えない、ということがありうる、ということか。想起のディテールに欠落部分がある、と。夢の中の人物の顔が判然としない、というのに似ている?いずれにせよ、モエノ=作者(の代理表象として舞台にいる者)が、まさに今小説を書いていて、瞬間瞬間に脳内に浮かぶイメージがあり、その場(上演の舞台上)でそれ(小説)が可視化されている、そしてそのイメージの鮮明度には濃淡ある的なことか?むむむむ…。とはいえ、「作者がある出来事のことを書き進めながら作中人物に持たせる傘の種類を本人に訊く」というのはその瞬間の効果(インパクト)として絶大だ。

ある日の2人の会話の記憶のモエノによる想起として、職場の近所のパン屋に勤める「トモヤくん」に、一緒に博多に行きませんかと誘われた、どうしよう、という話をスミコがモエノにする、という場面。会話の途中でトモヤくん(草笛おじさんと同じ俳優)が突然舞台上に現れ一言。
「⻄九州新幹線って言ったって〜、武雄温泉から⻑崎までの〜ちょおっとしか走らないんですよ〜」
それは博多行きを誘われた時に、「乗り鉄」であるらしきトモヤくんがスミコに向かって得意げに語った言葉なのだろう。ということは、舞台にいきなり現れたトモヤは、スミコの想起の中の脳内トモヤだと考えられる。マンガのフキダシ=バルーンの中の想起イメージ。ところが、彼が舞台に入ってきて立ち位置に静止した瞬間に、モエノが彼を見遣る。マンガのコマの上方に浮かんだバルーンを、それを想起している主体であるはずのスミコとともに隣のモエノも見上げている図、という感じ。これはどう考えたらいいだろうか?モエノが「スミコの脳内トモヤ」を想像で見ているのだとしても、ではそれを見たのはいつなのか?会話中?その会話をしたことを思い出している今?

撮影:西野正将

モエノが深夜の自室で塩ラーメンを食べながら、スミコさんは今、夢を見ているだろう、と「スミコが見ている夢」を想像する。舞台に現れたスミコが無対象演技で所作を行い、モエノは、スミコさんは店の陳列棚に並ぶ皿を一枚一枚手に取ってゆっくりと眺めていく、とモエノの想像上のスミコの夢の光景を語る。遂にこの場面で上演は、記憶の想起から一歩前に進めて、他人の夢を勝手に想像し、想像上の出来事が可視化されるにいたる(もちろん、その想像上の他者の夢のイメージは、過去にモエノが見ていたであろう棚に皿をならべるスミコの姿が出てきたのだと考えることもできる)。

このシーン以降も、それまでと同様に、モエノがスミコの日常のあれこれを語り、スミコがそれを行為として行うというかたちの上演が続く。ジョギングの途中で草野球を応援するスミコ、スーパーで買い物をするスミコ、夕飯を食べながらテレビに向かってツッコミを入れ続けるスミコ…。だが、「スミコの夢」のシーンを経た今やそれらはすべて、スミコから聞いた話を思い出しているのではなく、出来事を勝手に想像=捏造しているのではないか、という疑念がついて回ることになる。描写がまるで目の前でそれを見てきたかのように妙に詳細なのも怪しい。モエノ=スミコの脳内ストーカー説。

再び深夜に塩ラーメンを食べながらモエノが想像(捏造?)するスミコの夢。やはりスミコは店の陳列棚に並ぶ皿を眺めている。舞台上のモエノは上手奥の壁際からそれを「覗き見」しているような構図。突然スミコが振り向き「こっち来る?」と呼びかける!「え?」と驚くモエノ。まさにこれは驚くべき展開だ。モエノの脳内の「スミコが見ている夢の中のスミコ」から誘われ、入っていくそこはいったいどこなのだろうか。かくしてモエノはスミコの横に立ち一緒に陳列棚に並ぶ皿を手にとって眺める。するとここで劇中初めて音楽が流れる。ドビュッシーの弦楽四重奏。第三楽章(Andantino, doucement expressif アンダンティーノ=ややゆっくりな速度で、甘く表情豊かに、と楽譜に書かれた指示)。
モエノ「あ、わかった。あ、わかった。スミコさん、わかりました! 」
スミコ「そう。そうね。私の名前はスミコ。澄み渡る空って書くスミコ。今、澄み切っ た眼差しで、この皿を見ている! 」
モエノ「スミコさん! 」
スミコのスミコという名前は澄みわたる空の澄子なのだ、という突然訪れる「啓示」(「恩寵」のような)。そう、これは夢の中だ。スミコではなくモエノが見ている夢(おそらくモエノは「スミコのみている夢」を想像しながら寝落ちしてしまったのだ)。夢の中で結ばれるシスターフッド。暖かく、満たされた至福の時間。エロティックだ。

陳列棚に並ぶ皿を一枚一枚手に取っては戻すという二人の身振りはいつしか入荷した皿を棚に並べる作業にスライドする。「今日は午前中に新作の入荷があって、スミコさんと私は陳列作業に追われた」と語るモエノ。
「今日は」と言っている。舞台上で表象されている事柄の時制(「現在」という「設定」)がここで始めて発話として明示された(これより前のシーンでの、「えっと、それは、今、傘ですか日傘ですか?」の時の「今」は、さしあたり「この劇の舞台上で、今あなたが上げている腕、無対象演技なので傘はないけれど、あなたが「傘をさしている」という体で片手を上に上げている」今、その舞台上の表象行為の上演の時間における今だった…)。
しかし、実はこの後のシーンではこのシーンの「今日」よりも後の話が出てくる。ということは、まだ来ぬ「未来」のことさえもが平然と扱われる劇なのかこの劇は!? さもなくばやはりすべてがモエノの想像・妄想(捏造)ということか。あとは、モエノの「日記」の再現前=上演という可能性もある。テクストがあり上演がある、それが演劇というものなのだから。

さてその「今日」の午後、仕事帰りにカフェに行く二人。そこで交わされるのはお隣のシゲコさんの話。昨晩、訪ねてきたシゲコさんが、ブレーカーが落ちてしまったのだけど、配電盤に手が届かなくて電気を付けられないというので、ブレーカーを上げに行った、と。私がいない時でもシゲコさんが自分でブレーカーを上げられるように何か長い棒のようなものを買ってあげたいのだけれど…。
その話の途中、二人で向かいあうカフェの席からスミコは舞台上手に移動して、背を向け腰を屈めた姿勢で「いい感じの棒、見つかるまでは、私に言ってください。またブレーカー、落ちたら、私、スイッチ上げに来ます。シゲコさん! 私はね、いいですか。シゲコさんのスイッチ上げ係です! つまり、棒です。私、棒です。シゲコさんの棒です! 」と話すので、それはつまり昨晩の出来事の「脳内上演」だ(だがしかしそれは誰が想起する光景だろう。モエノ?スミコ?)。
さらにそのまま「そのときね、シゲコさん、生きて行くのが辛いんだって泣いてた」と話し始めるので、カフェでモエノとの会話が続いていたことがわかる。(舞台上演の表象の仕方において)間接話法から直接話法へとシームレスに切り替わりが行われた、ということだ。だが、舞台上のスミコの身体は喫茶店ではなくそのままシゲコさんの家の過去時制に残っている。だから、観客としては、スミコがその過去の出来事の渦中から現在時のカフェに向けて語りかけているように感じられるのだった。カフェのモエノも、過去の離れた場所にいるスミコにあたかも目の前にいるかのように平然と応答する。上手と下手の、別々の時空間のアクロバティックな交差/接続!
シーンはこの状態・位置関係のまま、昨晩シゲコさんが泣きながら打ち明けた話になる。妹夫婦にお金を貸したら返してくれなくて、電気が消えてもブレーカーひとつあげることもできないのに、介護施設にも入るお金もなく、この先一人でどうやって生きていったらよいのか、というシゲコさんの話を語るスミコの、後ろを向いて腰を屈めた姿勢が、少しずつ起き上がっていき、視線も下手に位置する(カフェにいる)モエノに向き始める。それはシゲコの家(過去)がカフェ(現在)に、だんだんと収斂していくプロセスのようだ。話を続けながらスミコが完全に真っ直ぐ立つ姿勢になり、ゆっくりとモエノのほうに移動し、最後にはテーブルを挟んで向かい合い、コーヒーカップを手にした状態に戻って、この会話は、このシーンは終わる。

その後、いくつかの挿話の上演を挟んで「第7場」。
「私は、働いている。あいかわらず、ここで働いている。スミコさんが、店をやめた。 ……辞めたのだろう、たぶん、正式なことは何も聞かされてはいないので、よくわからないが、あれから、スミコさんはここには来なくなった」と語るモエノ。店で来店客の対応をしながら消えたスミコのことを考えているモエノ。
「あれから。……あれからっていつからなのか。いつからだったのか」
「ああスミコさん、ほんとに、この町から消えたのですか」「とは言え、スミコさんを見た人がまったくいなかったわけではない。人々は新装開店したパチンコ店に並んでいるスミコさんを見たし、秋の陶器市、百円コーナーでのスミコさん、皿山公園を散歩するスミコさん、駅前の自販機で缶コーヒーを買うスミコさんを見た」「とりわけ、私が注目したいのは、メモリアルホールでのスミコさんだ。その日、葬儀があって、その葬儀に参列するためにスミコさんはメモリアルホールにやって来た。亡くなったのはシゲコさんだった」。
こうして、場面は自殺したシゲコの葬儀の場となり、モエノの語りの実体化としてスミコが登場し、時にスミコ自身がその時のことをモエノに向かって語り、モエノがそれに応答さえする。しかしこれはやはり変だ。このエピソードは、モエノがスミコから直接聞いた話ではないだろう。誰かからその日葬儀場でスミコを見かけた、と聞いたのだしても。葬儀の詳細なディテールや葬儀におけるスミコの行動に関する「会話」。たとえば葬儀場でスミコは焼香の後、喪主=妹夫婦に向けてーー
モエノ「なんて言ったんですか」
スミコ「なんていうか、あんたたちが、シゲコさんの貯めたお金とらなかったら、シゲコさんもこんなことにはならなかったはずよって、言っただけかな」
完全にモエノの「想像」による「創作」だと考えるしかない。「夢のシーン」を除き、ここまで上演されてきたすべては、モエノの語りによって起動し生起してきたわけだが、一応それは現実にあったことが語り手の「主観=解釈」で語られる「報告」という構造だった。それがスミコがいなくなったことで「箍がはずれた」というべきか。
かくして、続く最後のシーンは一挙にありえない展開へと流れ込むだろう。

場面は、葬儀から帰ったスミコが喪服を脱ぎバスタブに身を横たえる(もちろん立ったままバスタブの縁に両手をかける演技)ところから始まる。「あー。お風呂サイコー。生き返るー」と言うスミコはそれまでと比べて明らかにふざけたキャラになっている。たとえば、芸人のコントの演技スタイルのような。そこへモエノが現れ「こんばんは」と声をかける。「え、誰」「私です」「え、誰よ。こわい」「モエノです」「モエノさんか。誰かと思った」「すみません、入浴中に」…って、何だこの展開は!?!?
展開のデタラメさ(まさにコントのような)はひとまず置くとして、このシーンでは、モエノの語りという外枠は放棄される。スミコ(を演じる俳優A)とモエノ(を演じる俳優B)が固定されており、その瞬間その場所(スミコの自宅)で向かい合って会話をやりとりする、という普通の会話劇(コントもそうだ)の構造がこのシーンでは終始維持される。「ありえないシチュエーション」だけれど。
バスタブのスミコに向かってモエノはスマホの画面を見せ、遠く離れた埼玉県上尾市のイオンモールのフードコートで起きた不思議な事件のことを教えたくてここに来たのだ、と言う。それは、その日(というのはシゲコの葬儀の日だ)、フードコートで男性の迷惑客が暴れ出し、突然何かに取り憑かれたようにテーブルの上に上がった男が、「棒のようなもの」を持った両腕を高く掲げて天井方向に向けて中空を一突きすると、なぜかすべての明かりが消え停電状態になった、というものだった。「あ、シゲコさん。まさしくそれはシゲコさんよね」「そうです、きっとシゲコさんの霊が男にとりついたんです」。腕が不自由で配電盤のブレーカーを上げられないシゲコのために、スミコが買おうとしていたけれど、ついに間に合わなかった、あの「ちょうどいい長さの棒」が巡り巡って伏線回収されたのだ。そこへ、いきなりその記事は自分が書いたのだという「東京心霊研究所の所⻑、アズミノです」と名乗る男(草笛おじさんとトモヤくんと同じ男性俳優だ)があらわれ、ひとしきり心霊現象についてレクチャーして(事件の謎はまったく解き明かされぬまま)去っていく。何だコレ!?!?
そう、これは「夢」だ。モエノが見ている夢だ。先にみたように、塩ラーメンを食べながらモエノが思い描いた「スミコの見ている夢」もまた、寝落ちしたモエノの夢かもしれなかった。夢の中でこそ、その人のかたちが明瞭になり、距離が消失し、確かな結びつきを感じられること(モエノにとっては依然として姿形のはっきりしないシゲコさんとの間にさえも)。

撮影:西野正将

(ところで、というように)「わざわざ、そんなことを知らせるためにここに来たの?」 とモエノにスミコが尋ねる。「ええ、そうです。でも、もうすぐ、帰ります」 「いいじゃない。もう少しいなさいよ。お茶でも飲みましょう」
すると、ふたたびドビュッシーの弦楽四重奏が流れ始める。(この上演では)夢の中でだけ音楽が鳴り響く(じつは冒頭、俳優が舞台に登場する前にも、からっぽの舞台にドビュッシーの四重奏曲が3分弱、まるまる流されるのだった。ということは、この劇全体の外枠が「夢」ということなのかもしれない)。音楽で満たされていく親密さの時間。
その中で言葉の時間は終わり、無言のままゆっくり時間をかけてお茶の支度をするスミコの所作、その美しい動きだけが残る(私にはその動きは「お茶を入れている」ようにはまったく見えなかった。何をしているのかよくわからない奇妙な、だがとても美しい身振りだ、と思った)。モエノはそれを恍惚として眺めている。

寂れかけた地方の街(「山あいの陶磁器の町」)の“なんとなく小綺麗な器、こじゃれたティーカップの類いを売るお店”で働きながら、ひっそりと暮らす女性、特筆すべきもののない(とされるような)存在であるモエノというひとりの女性が、同様に取り立てて特異な存在というわけでもない、同じ店で働くスミコというもう一人の女性に目を凝らし、そのかたち、その「器」の中身を覗こうとする。目の前から消えてしまってもなお想像力によって。そのような接近のしかたによって、この世界の条理・理性、この社会の慣習・常識・規範によって現実の生、生活においては隔てられてはいるけれど、原理的には”あってしかるべき”他者との関係を成立させようとすること(「葬儀の日に遠く離れた場所で起こる未完の行為の成就」という連関、「いなくなった人を見えなくなっただけだと強弁し夢の中で会う」という関係の取り方、「ランニング中、だんだん辛くなってくるころ、ちょうどいいタイミングで出くわすことが走るのをやめるのにうまい口実となる人」として(のみ)存在する草笛おじさんとの「固有」な「かけがえのない」「代替不可能」な関係性、「私はシゲコさんの棒です!」という他者との関係性(自己規定)、「一緒に歩いて、こんなにリズムの合う人を私は知らない(だからといって付き合いたいわけじゃない)」という関係性、「スミコさんがお昼に塩むすびを食べたのなら、私は、深夜に塩ラーメンを食べる」とわけのわからない「張り合い」をする関係…)。
尋常ならざるこの上演の方法、すなわち「記憶/想起/夢想/夢」「現実/想像/創造」「過去/現在/可能性」「別の場所/ここ/可能世界」「他者/自己/私たち」といった階層構造を伴うナラティブを自在に(仙境に達したかに融通無碍に)行き来するその仕方は、その主題の切実さ(思い切って「祈り」と言ってもよい)と照応していたようだ。


桜井圭介(音楽家・ダンス批評)

吾妻橋ダンスクロッシング主宰、三鷹SCOOL共同代表