マレビトの間合い—『皿の上の見えない人間』における近さ、遠さ、回帰する不幸|朴建雄
- テキスト
不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。
シモーヌ・ヴェイユ『神への愛と不幸』
ドビュッシーの弦楽四重奏曲第三楽章、夢幻に誘うような哀切な調べが空間を満たす。この音楽からはじまる上演において、全ては照明の光に照らし出されているが、そこで何が行われているのか、判然としない。明るい暗がりと化した白い舞台には、俳優の身体以外なにも存在しない。俳優と観客の間の距離は五メートルもなく、俳優の身体は、観客の目の前に無視できない近さで存在している。底が見えない黒い穴のような、何を見ているのか伺い知れない、三対の目。他ならぬその人がただいること以上の情報量が削ぎ取られたような佇まいの俳優の身体。どちらもなにかをそこに投影したり、没入したり、勝手に想像したりすることを拒むかのようで、物理的には近いはずにもかかわらず遠く感じられる。白い壁に、様々な角度から照らされた演者の身体の影が濃く淡く幾重にも伸びる。上演で立ち現れる時空間も同じく、重なり合い伸縮し濃淡さまざまに展開していく。
俳優たちは、演じるというよりもただそこに立ち声を発することだけに注力しているように感じられる。自分以外のなにか別の人格を演じるのではなく、自分自身としてでもなく、その間で、自分の身体と声を空間に配置していくことにただ集中している。西山真来の霞んだような目元と、長い四肢を少し持て余すかのような動き。廣瀬もえの真っ直ぐな視線と姿勢。生実慧の斜め上を向いた顔と、少し身体が緊張した立ち姿。彼、彼女たちは表情も声色も声量もほとんど一定で変化がないように感じられるが、目と耳を凝らせばそこにはわずかな変化が滲んでいる。マイムでなにかを示そうとするその手の所作は淡々と遂行され、その動きが示唆する見えないモノや空間は持続せず、演者と観客の間で次々と曖昧に像を結んでは消えていく。
マレビトの会の上演における俳優の演技とそこから生じる舞台空間を目の当たりにすると、目を凝らし耳を澄まさなければ消えてしまいそうなこのかすかな曖昧さに辛抱強く向き合う姿勢を自分の身体が模索しはじめる。わたしは変化し続けるその曖昧さとの適切な距離を測り続ける。演劇に関するある種の決まり文句として倦まず繰り返され続けてきた、生身の身体がそこにあることの熱気やライブ感に同調するのとは別種の身体感覚がここにある。
マレビトの会の上演に対峙した際の、この感覚はなんだろう。間合い、という言葉が頭に浮かぶ。観客席で固定された舞台との物理的な距離ではなく、演者と観客の身体の間で行われる感覚の分かち合いにおいて生じる、自他の異同あるいは近さと遠さの距離感を、間合いと呼びたい。わたしたち観客に対するマレビトたる俳優たちは、入り込みすぎた熱演でも完全に突き放した棒読みでもない、絶妙の綱渡りのような間合いで戯曲の言葉と己が身体の距離を測り続けている。俳優たちに対するマレビトであるわたしたち観客も、俳優が発する声や身体感覚に同一化もせず、無視して放り出すこともしない自分たちなりの間合いを探り続ける。もちろん、うまく間合いが測り切れずに、あるいは放り出すことが自分にとって良い間合いとなって、寝てしまう観客もいる。
戯曲の言葉と俳優の身体の間で、俳優の発語し演技する身体と観客の聴き眼差す身体の間で、上演において言葉と所作がもたらすイメージの輪郭は固着せず絶えず変容していく。マレビトの間合いは、親密に一体化してしまうほど近過ぎもせず、赤の他人のごとく無視できるほど遠過ぎもしない、付かず離れずの身体感覚の微かな分かち合いだ。物理的には近いが感覚的には遠いマレビトの間合いの中で、わたしたちは安易な理解、共感や想像に逃げ込むことができずに、生身の身体と身体の間で感覚を分かち持つことはこれほど困難なのだという事実に向き合い、目の前のわからなさとの関係性を模索し続ける。
遠ざかる揺らぎ
マレビトの会『皿の上の見えない人間』は、廣瀬もえ演じるモエノが、ある時期バイト先で一緒だった西山真来演じるスミコさんのことを思い起こして語る、という語りの構造を基調としている。その語りの中でスミコさんが関わる様々な男性を、生実慧がほとんど変わらない調子で演じる。廣瀬によるモエノの語りはある種の独白のような趣で、身体と声の方向こそ観客席を向いていることが多いが、観客席にいる観客に語りかけるようなものではない。西山によるスミコさんの台詞も、生実が演じる数人の男性の台詞も、観客の方を向いて発されはするが、自分の周辺に声を漂わせるように発語される。観客は目の前に漂うその声を拾おうと、耳を澄ます。
観客はスミコさんに関するこのモエノの語りを縦糸として、戯曲の中に重ねあわされたいくつもの時空間を体験することになる。モエノの語りは基本的には時系列に沿って過去を思い出す形のように聞こえるが、そこにはたびたび破格が生じる。例えば劇の冒頭で、「いろんなことが、もう終わっちゃっててー、とスミコさんが言ったことがある」とモエノが語るが、スミコさんは最初の台詞として、そこに疑義を呈するような声で「え」という言葉を発する。このようにモエノが語っている最中にスミコさんが割って入ったり、あるいはスミコさんが何らかの場面を演じているところにモエノが口をはさんだりする場面は劇中で何度も見られる。観客の没入を所々で阻むこうした語りの揺らぎは、観客が見ていると感じていたモエノの語りの時間あるいはスミコさんが演じる時間にもう一方の時間を二重露光のように重ね合わせ、舞台上の今ここをいつどこなのか不明瞭な時空にしてしまう。こうして、いつどこにいるのかわからない浮遊感が観客にもたらされる。
いつどこなのかわからない感覚は、場面転換の多さによっても強調される。モエノの語りでは、映画のように次々に様々な空間が展開する。冒頭の「たくさんの窯元と小さな家々が集まった山あいの町。その町の陶磁器を売るショップ。レジの近くの作業机を前にして、モエノとスミコさんが立っている。」というト書きから、続くシーンには「スミコさんはシャッターをおろし、二人は駐車場へ行き、軽自動車に乗り込む。モエノの愛車、スズキ・ハスラー。助手席にはスミコさん。」とあり、この場面の中でさらに車内でのモエノとスミコさんの話に出てきた「壁にコーヒーカップがずらりと並んだカフェ」に空間が一瞬移り変わる。続けて「皿山公園の外周」から「店の裏にある、ベンチ」、そして深夜のモエノの台所、スーパー、スミコさんのアパート、教習所、博多、葬儀が行われているメモリアルホール、スミコさんの部屋とお風呂、「埼玉県の上尾市にあるイオンモール」と、劇中では映画の編集のごとく融通無碍に空間が全く違ったものへと変化する。

上演において、人物の再配置がなされることで場面が変わったことはわかるが(戯曲のト書きにはそれぞれの場面がどんな場所か明確に記されているが、上演で得られる視聴覚情報だけでは、それを理解することが不可能に近い場合も多々ある)、台詞によって現在演じられている場面がどこかなのか言及されるまで、登場人物たちがはたしてどこにいるのか、観客にはわからない。俳優たちの演技と発語のトーンは安定しているが、それらがあらわす場面がどこなのか、観客の理解は常に揺らぐ。ほとんどの場面は持続時間も台詞も短く、特に大きな出来事が起こるわけでもない。また、舞台空間には一切の舞台装置や小道具、照明変化がない。観客が舞台上から得られる視聴覚情報は俳優の身体とその声だけに絞られている。場面の変化が唐突かつ多いため、今ここがどこでどういう状況なのかは観客の認知の中で揺らぎ続け、観客が舞台で起こる出来事や台詞に身体感覚を同調させることを困難にする。
近づく笑い
一方で、映画における長回しのように持続時間の長い場面も存在する。こうした場面においては、観客は舞台上の今ここがどこなのか、どういう状況なのかを理解し、俳優の身体感覚に近づくことができる。上演においておそらく最も長かった場面のうちの一つに、スミコさんが生実演じる教官と自動車教習所で教習車に乗って練習するシーンがある。スミコさんは、運転席に右足から乗り込もうとしておかしな姿勢になり、ブレーキを何度もベタ踏みして急停車し、バックの際に視線、ハンドル、アクセルそれぞれを意識するよう求められて混乱してしまう。スミコさんは何度も急停車を繰り返し、最後には教官が補助ブレーキを踏んで運転を止める。この場面では演者の西山のゆったりとした動きと少しテンポがずれたような佇まいが持続し、そこに教官の言葉への慌てた反応が時折混じる。こうして西山の個性と演技によって、教習で不器用な失敗を繰り返すスミコさんのキャラクターの愛嬌は存分に発揮され、観客の笑みを誘う。その不器用さに動じず指導を続ける教官を演じる生実のしれっとした話しぶりや佇まいも、笑いに拍車をかけていた。
不器用なスミコさんは劇中を通して天然ボケのような言動を続けるが、モエノは冷笑したり無視することなく、それに反応する。ときにはツッコミを入れたりもする。スミコさんを演じる西山が長い手足をゆっくりと動かしている様子や、ぼんやりと周りに広がっていくようなゆったりした発声にはいかにも不器用な感じがある。それとは対照的にモエノを演じる廣瀬の所作はきびきびとしており、声も方向性が明確ではきはきしている。佇まいが大きく異なるこの二人が、なぜか一緒にいて、間の抜けたスミコさんのさまざまなエピソードをモエノが語り続けている。観客が見聞きするのはこのモエノの語りの距離感から生まれるスミコさんの姿だ。モエノの語りの距離感が観客にもたらすのは、距離を広げて突き放し高みから見下ろす嘲笑的な嗤いではなく、不器用さを愛嬌として受け入れ包み込むような笑いだった。こうして観客がある程度身体感覚を同調させることが可能な場面において、この笑いが舞台と観客の間合いを近づける。
スミコさんの天然ボケの一つの例に、何度も同じようなフレーズを繰り返して言うという癖がある。繰り返される言葉が最も印象的だったのは、次の場面だ。
スミコさんのアパート。
スミコさんは、戸棚から皿を出して、スーパーのお惣菜を皿に移して、レンジでチンして丁寧に盛り付けをして、しっかり食べる。
その合間に、リモコンでテレビをつけて見る。
スミコさん「誰、この人」
スミコさん「何、これ」
スミコさん「誰、この人」
スミコさん「え誰なのこの人」
スミコさん「え、なんなのこれ」
リモコンで、テレビを消す。
このスミコさんの台詞は、まさしく観客が舞台上で起きていることに対して感じていることを代弁しているかのようにも響く。舞台上にいるのはスミコさんなのか西山なのか。今舞台上では何が起こっているのか。上記の引用通り、この場面にはト書きで詳細な指定があるが、上演では全てがテンポの速いマイムでしか表現されないため、ト書きに書かれた通りに所作の意味や場所を読み取るのは難しい。
さまざまな芸能人が現れては消えていくテレビメディアは、現代日本に生きるわたしたちの二極化する他者への距離感を象徴するかのようでもある。時空を超えて視聴者は一方的にテレビタレントやアイドル、インフルエンサーに親近感を抱くが、彼彼女らからすれば視聴者は限りなく遠い存在だ。デジタルメディアを介した他者への距離感は、「推し」のような一方的な極端な近さか、全く気にもかけない限りない遠さのどちらかに偏りがちだ。注目すべきは、このテレビの場面がスミコさんの日常の中に置かれているという事実だ。後述するように、スミコさんは目の前の相手と向き合い、程よい距離感を模索する人物だ。テレビを消すというスミコさんの行為は、一方的な遠さと近さしか提供しないメディアへの、言葉によらない応答である。そしてこの上演そのものも、テレビとは対照的な「近さ」の形を示している。五メートル以内に身体があり、声が漂い、時間が共有される。それは画面を介した距離感とは根本的に異なる、身体と身体が向き合う時間だ。
『皿の上の見えない人間』では、上演における演技や戯曲の構成の次元だけでなく、戯曲における登場人物の関係性の次元でも、この近さと遠さの探求を見てとることができる。ここからは間合いという言葉を、演者と観客の間だけでなく、登場人物同士の関係における距離感の模索にまで広げて使いたい。モエノとスミコさんの関係だけでなく、モエノによって語られるスミコさんと彼女の周りの少し奇妙な人々との関係においても、様々な間合いが提示される。
スミコさんとおかしな男たち
モエノが語るスミコさんの生活の中には、コスパとタイパが称揚される社会で、モエノのように効率的に器用に生きようとする人間が見落としてしまうものが見え隠れする。劇中、スミコさんが出会う数人の少しおかしな男性は、みな生実によって演じられる。スミコさんの日課は皿山公園の外周を三周走ることだが、草笛おじさんに出くわすと、モエノが語るように「草笛おじさんの草笛を理由に、今日は二周でまいっかってなることがちょいちょいある」。草笛おじさんは、ピー、ピーピー、ピー、ピピー(生実は本当にこう声に出しており、唐突に現れ神妙な顔で懸命にピーピー言い続ける彼の演技に笑う観客も多かった。これが演者としての生実の本作での初登場である。曲は六甲おろしらしいが、ほとんどそうとはわからない)と草笛を吹くだけで、なにも語らない。無視する人も多いだろうおじさんの口笛に合わせて、スミコさんはハミングする。
この草笛おじさんの場面の少し後には、次のようなト書きからはじまるシーンがある。「昼。スミコさんは、店の裏にある、ベンチでおにぎりを食べている。近くに喫煙スペースがあって、トモヤがタバコを吸っている」この場面指定も、ただ上演を見ている観客には台詞で説明が入るまでほとんど伝わらない。「タバコの煙がなにより嫌いな」スミコさんだが、「トモヤくんの吸うタバコって煙がこっちにきたためしがない」、「あんなに吸って、あんなに煙を吐き出して、風向きだって、こっちなのに、こんなにおむすびがおいしい」とトモヤくんに話しかける。トモヤくんはスミコさんから話しかけられても顔色一つ変えずそれを鼻で笑ったかと思うと、唐突に「今度、博多に行きましょう」と持ちかけ、電車の乗り換えの話を滔々と続ける。上演において、ここまでのやり取りは非常に淡々とした演技によって遂行されるが、そこには微細なアクセントが存在する。西山は劇中で声の音量を変化させることが少ないが、「こんなにおむすびがおいしい」という台詞は、少し大きな声で思いを吐露するように発語される。トモヤくんが鼻で笑うという場面では、斜め上を向いてタバコを吸う所作(生実は、おおげさなまでに煙を大きく吸い込み、吐き出す)を機械的に何度も繰り返していた生実が正面を向き「ふん」と息を漏らす。これらはそこまでの一定した演技の基調と異なるため、集中して鑑賞していた観客には大きな変化として感じられる。

スミコさんが関わる男性たち、草笛おじさん、トモヤくん、教官はみな独特で、特に前者二人は社会では無視され透明化されてしまうような存在だ。少年のような容貌の生実が少しこわばった佇まいで淡々と演じる彼らとスミコさんの関係は、劇中の台詞によればどうやら長く継続はしていないが、スミコさんは自分なりに彼らのありように向き合う。彼らのなんだこれはと言いたくなるおかしさに目を凝らし、一緒にいられる間合いをなんとか見出していく。スミコさんは草笛おじさんの草笛にハミングで応え、トモヤくんの博多ツアーにも結局は参加する。「行くことになるかもな」、「博多、行くことになるかもな」、「博多、行くことになったらどうしよ」と不安がってはいたものの、実際行ってみれば「一緒に歩いて、こんなにリズムの合う人を私は知らない」とスミコさんは言う。だが舞台上に見えるのは身体を軽く横に揺らす西山と生身だけで、その揺れるテンポは微妙にずれており、台詞との矛盾が観客の笑いを誘う。二人が一緒にスタバに入ると、「特に話題もないから暇を持て余す」ことになってしまう。一緒にいようとする試みは、成功し継続するわけではない。だが、可能な限り相手の佇まいに近づこうとする関係の模索は、確かにそこで行われている。
「見えない人間」
劇中には、台詞上でしか登場せず、俳優によっては演じられない重要な登場人物がひとりだけいる。文字通り「見えない人間」であるそのシゲコさんは、前述のスミコさんがランニング途中に草笛おじさんと出会う場面の直後に初登場する。
スミコさん、家のドアを開け、鍵を閉める。
モエノ「町営アパートに住んでいるお隣のシゲコさんもちょうどお出かけの時で」
スミコさん「あ、こんにちは」
モエノ「シゲコさんは生まれつきからだが不自由でゆっくり歩く。独特なリズムの足取りだ。しゃべるのも自由にはならないけれど、スミコさんはシゲコさんの言ってることがなんとなくわかるようになった。週に一度の福祉センターの日を楽しみしているシゲコさん。最近、お友だちができたのだ」
スミコさん、日傘を差して、シゲコさんを日差しから救う。
スミコさん「そう。そうだと思ってたんだけど。お友だちができて最近、楽しそうだとばかり。でもね、そんなのこっちの都合のいい想像にすぎないのよね」
モエノ「雨だと傘を差して一緒にバス停まで行くし、夏の暑い日は、日傘を差してあげる」
スミコさんとシゲコさん、一つの日傘の下で、バスを待つ。
モエノ「えっと、それは、今、傘ですか日傘ですか」
スミコさん「日傘です」
モエノ「私なら、傘ごと渡しちゃいますよ」
スミコさん「シゲコさん、傘、持てないから」
シゲコさんはスミコさんにありがとうございますと深々とお辞儀をする。
バスが来て、スミコさんとシゲコさんはバスに乗る。
しばらく町を走るバスに乗っている二人。
スミコさん「シゲコさんと一緒に乗る、バスからの眺めは美しい」
この場面の「日傘を差して、シゲコさんを日差しから救う」というト書きも、舞台上の西山の腕の所作を見ているだけでは、その動きで日傘を差してシゲコさんを救っているのだと理解することは難しい。「スミコさんとシゲコさん、一つの日傘の下で、バスを待つ」、「シゲコさんはスミコさんにありがとうございますと深々とお辞儀をする」というト書きについても、見えないシゲコさんがそういう動きをしているのだと知ることはほとんど不可能に近い。舞台上に見えるのはスミコさんとして立っている西山とモエノとして場面を語る廣瀬だけだからだ。モエノの語りとスミコさんの反応からなんとなく存在が伺えるという程度にしか、観客はシゲコさんを感知できない。スミコさんはモエノの語りに二回答える。お友達ができたというのはこっちの都合のいい想像に過ぎない。傘ごと渡すことはできない、シゲコさんは傘を持てないから。現場にいないモエノの想像による語りは、現場のスミコさんによって修正される。
見えないシゲコさんを、観客は演者二人の語りと所作から想像することしかできない。しかし語りも所作も情報量が少ないため、そもそも想像は困難である。「シゲコさんと一緒に乗る、バスからの眺めは美しい」という台詞も、西山が首を斜めに向けるその所作以外に想像の糸口はない。だがそれゆえに、この見えない眺めの美しさはスミコさんだけが知っているという事実が一層観客の胸に迫る。ただその感覚も、舞台上の上演空間がすぐにバスから次の場面に移り変わってしまうために持続しない。
見えないものを見たかのように、自分の身体では感じていないなにかを感じたかのように促すことが演劇の力の一つだとするなら、この上演はフィクションを持続させることでそのもっともらしさを増すのではなく、ぶつ切りにして軽く扱うことで、非常に禁欲的にその力と向き合っている。舞台で提示されるなにものかに観客が自分の感覚を投影することで生じる演劇の力は、「こっちの都合のいい想像」にすぐに陥ってしまう。見えないものを見たかのように錯覚する想像力は、現場と事実を見据えることを欠いてしまうと、「私なら、傘ごと渡しちゃいますよ」というモエノの言葉のように独善的なものに堕してしまう。「こっちの都合のいい想像」をやめ、わからないものをわからないままに、見えないものを見えないままに保ちそれでも向き合うという倫理が、この作品では示されている。シゲコさんが観客から見えない存在であるのは、この倫理の現れとして考えることもできる。
シゲコさんは外出しなくなり、福祉センターにも行かなくなる。週に一回デイケアの人がお弁当を届けているだけなのを見て、スミコさんはなにか料理を作って持っていこうかとも思案するが、考えるだけで実行はしない。このことはモエノの語りとスミコさんの台詞が混ざり合った形で示される。バイト終わりにお茶をすることになり、壁一面コーヒーカップのカフェでモエノとコーヒーを飲んでいる場面で、スミコさんは昨日の夜シゲコさんが部屋に訪ねてきたという話をはじめる。この経緯がわかるのは台詞の内容によってのみで、舞台上に見えているのは、なにかを飲むように手を動かしながら下手寄りに並んで立っている廣瀬と西山だけだ。シゲコさんとのエピソードを話しているうちに、西山は上手に移動し、「スミコさんは腰をかがめ、シゲコさんの背中をさする」というト書きに合わせて、見えないシゲコさんの背中に手を伸ばし指で触れるような所作を行う。この所作はほかのマイムとは異なり持続時間が長いため、観客は西山の指の先にシゲコさんを幻視しはじめる。

シゲコさんがスミコさんを訪ねたのは、ブレーカーが落ちてしまったが、からだが縮んでしまい、いつもなら箒の柄で上げられるスイッチが上げられなかったからだった。スミコさんは難なくスイッチを上げると、ブレーカーを上げるための適当な長さの棒を買ってくるまでは、自分がスイッチ上げ係、棒になると伝える。そこでシゲコさんは生きて行くのが辛いんだと泣き始め、爪に火を灯すようにして貯めたお金が妹に全部取られてしまって、施設にだって行けなくなった、この家で、一人で生きていくしかないとスミコさんに訴える。スミコさんにとっては帰ろうにも帰れない状況だったが、しばらくしてシゲコさんは取り乱したことを謝り、スミコさんを家に帰した。
この一部始終は、舞台の下手側にいるモエノに向けて上手側のスミコさんによって語られる。語りの間、西山の指は常に見えないシゲコさんに触れている。このスミコさんの語りで観客が幻視したシゲコさんは、スミコさんが下手に戻って語り始めると、その拠り所であった西山の指が消えたことで存在感が薄れていく。直後に続く場面では、まさにシゲコさんがいた場所で、スミコさんがトモヤくんと博多行きの列車に乗るという動きが行われる。二人は、シゲコさんがいた場所を何もなかったかのように通り過ぎる。ここに至って、観客が幻視していたシゲコさんはかき消されてしまう。
スミコさんが垣間見る「シゲコさんと一緒に乗る、バスからの眺め」の一瞬の美しさも、スミコさんがさすり続ける痛ましい「シゲコさんの背中」も、観客は西山の言葉や所作を通じて間接的に感じることしかできない。美も不幸も、感じられたかと思えば消えてしまうような限りなく遠い距離の中で、見えないものとして感知される。
近くて遠い不幸
シゲコさんについてスミコさんが語る上記のカフェの場面の前には、この作品のタイトルを思わせる場面が配されている。深夜に塩ラーメンを食べながらモエノが想像する、スミコさんの夢のシーンだ。モエノは「きっと今頃、スミコさんは夢を見ている。夜の沈黙のなかで、いくつもの皿の並ぶ陳列棚を前にして、一つ一つ丁寧に皿を見つめている。たまに手に取り、その冷たさを知り、またもとに戻す」と語り、ト書きが次のように続く。「夜の陳列棚に、スミコさんがあらわれて、一つ一つ皿を見てゆく。そして、一つ手に取り、その感触を確かめ、棚に戻す。」ここでモエノは夜の台所に、スミコさんは夢の中にいるが、舞台上の二人の演者は同じ舞台空間を共有している。観客には同じ空間にいるように見えるが、演者たちは同じ空間の中で異なる二つの時空に存在しているのだ。すでに劇中で一度ここまでほぼ同じ場面があるが、その場面はモエノがスミコさんを見ているだけで終わってしまう。この場面では、スミコさんがモエノの眼差しに気づき、「こっちに来る?」「一緒に見る?」と語りかける。この台詞によって、ここまで舞台上であいまいに並置されていた二つの空間、モエノがいる深夜の台所とスミコさんの夢が一つに収束されていく。モエノはスミコさんに歩み寄り、彼女の夢の中でト書きにあるように「二人で、一つ一つ皿を見てゆく。そして、一つ手に取り、その感触を確かめ、棚に戻す」。
「たまに手に取り、その冷たさを知り、またもとに戻す」というモエノの語りは、実際にゆっくりと行われるスミコさんのその所作によって肉付けされ、時間をかけて持続する演技の時間が、誰もが感じたことのある「その冷たさ」を鮮やかに観客にも追体験させる。また、冒頭と同じ音楽がここで再度流れ、観客の感覚をさらに刺激する。この夜の陳列棚のシーンは二つともシゲコさんに関するシーンの少し前であり、「見えない人間」であるシゲコさんのエピソードをその時間の上に盛るように配置されている。皿の冷たい手触りは、シゲコさんという不幸な存在を象徴するかのようだ。
シモーヌ・ヴェイユが『神への愛と不幸』に記したように、「わたしたちの理性が犯罪に結びつけるあらゆる侮蔑、あらゆる排斥、あらゆる嫌悪を、わたしたちの感性は不幸に結びつける」。わたしたちの感性は(そしてヴェイユは思考もまたそうであると同論考で述べている)不幸を侮蔑し、排斥し、嫌悪し、遠ざける。『皿の上の見えない人間』でも、まるで感性が不幸を拒絶していることを反映しているかのように、シゲコさんは身体を持った存在としては存在しない。自分一人では明かりさえつけられない程に体もままならず、誰も頼る人もいない状態に追い込まれ、尊厳を剥奪され苦しむシゲコさんの不幸は、遠く間接的にしか語られない。こうしてシゲコさんが見えない存在であることは、そもそも体が不自由でしゃべることも自由にならない彼女のわからなさを勝手に表象しないという前述した倫理でありうると同時に、わたしたちが常に不幸を透明化し自らの感性と思考から遠ざけたがるという惨めな事実の反映でもある。この皮肉な二重性は、「見えない人間」とどう向き合えばいいのかという問いを、未解決のままに観客に提示する。
だがいくら感性と思考がそれを遠ざけようとも、不幸は常に既に今ここに存在している。そして具体的な他者として、あるいは多くの人々を飲み込むカタストロフ(広島、長崎、福島という都市が体験したように)として、わたしたちは常に不幸と出くわす可能性の中にある。手に取り、戻すという身振りは、わたしたちが不幸に出会ってしまった際の反応を思わせる。一時的な近さを得て、その手触りを知るという出会いの距離感だ。不幸とどう間合いを取るのか、つまり不幸とわたしたちの間に生じる倫理的な距離感をどうするかという問いがここにある。ここから不幸に同調するのか、見て見ぬ振りをするのか、それ以外の選択肢を取るのかは受け手の選択である。スミコさんの「シゲコさんが泣き止むまで、落ち着いてくれるまで、このまま、そこにいようと思ってたけど、このままずっとシゲコさん、泣き続けたりしたら、なんか面倒だなーとか思うじゃない」という台詞は、不幸に出会ってしまった時の反応として、きわめて自然に響く。第三者はそれでいいが、不幸の当事者は救いを得られることもなく苦しみ続ける。結果として、シゲコさんは自殺してしまう。観客がその情報を知るのは、モエノの語りによってだ。
フィクションとして回帰する不幸
スミコさんがシゲコさんから生きて行くことが辛いと聞いたエピソードの後には、スミコさんとトモヤくんが博多旅行に行く場面が置かれ、続くシーンではモエノによってスミコさんがいつからかバイトに来なくなったことが語られる。スミコさんはトモヤくんや教官と一緒になったわけでもなく、草笛おじさんに行方を聞いてもいつも通りの六甲おろしが返ってくるだけだ。ここではモエノが説明するたび、トモヤくんや教官、草笛おじさんとして生実が舞台に出てきて、それぞれのキャラクターの所作や台詞を遂行する。草笛おじさんに向かって「甲子園球場ってことですか」と問うモエノの懸命さは、観客の笑いを誘う。スミコさんを演じる西山が舞台上にいない時間はここまでほとんどなかったため、モエノの喪失感を観客もある程度分かち合うことになるが、その後すぐにまたスミコさんは舞台に現れる。現れたスミコさんに応じて、モエノは「スミコさんは、消えたのではなく。私に⾒えないだけなんだ。いや、私たちには⾒えない⼈間なんだ」と語り、スミコさんを見て「透明⼈間、この町に現る」と言う。突然消えたスミコさんへのモエノの愛憎が入り混じったこの言葉は、自分たちに都合の悪い存在を、たとえその存在が目の前にいようとも、すぐ「いないこと」にするわたしたちの日々の振る舞いとも響き合う。
モエノは、メモリアルホールで行われていたシゲコさんの葬式にスミコさんが参列していたことを語る。ここから葬儀の場面が演じられ、生実演じるお坊さんが囁くような声で読経とお説教をする中、スミコさんが語り始める。「お坊さんはね、シゲコさんには、いろーんな、それこそ⼤変なご苦労があったけど、これでやっとそのご苦労からも解放されるって⾔ったのよ。私、その時、シゲコさんはこれで、こんなことで解放されることなんかないって思った」。出棺の風景を語りながら、モエノはスミコさんがシゲコさんの妹と妹の夫、その息⼦を「罵った」「糾弾した」と言うが、スミコさんは「え」とその言葉を訂正する。「あんたたちが、シゲコさんの貯めたお⾦とらなかったら、シゲコさんもこんなことにはならなかったはずよ」とは言ったが、スミコさんからするとそこまで強いニュアンスではなかったらしい。「棺に花⼊れるのに夢中で聞こえてなかったのか、特に反応なかったな」と言うように、スミコさんの言葉はどうやらその場の人間には届かなかったようだ。一本の花をシゲコさんの棺に入れ、帰宅して入浴するスミコさんの前に、突然モエノが現れる。

ここまである程度現実と付かず離れずのように思えていたモエノの語りは、この登場以降、現実から大きく遠ざかりフィクションに飛躍していく。これまでの場面と違って、モエノはスミコさんのことを語るのではなく、スミコさんに語りに来たのだ。ここに至って、モエノとスミコさんの関係が変わる。スミコさんはモエノの語りの中の存在ではなく、話しかける相手となる。モエノはスミコさんに、ある話を語り始める。埼玉県の上尾市で棒のようなものを持った男がイオンモールを真っ暗にし、無数のヒトダマがそこを舞ったのを丸亀製麺のバイトの女の子が目撃したというネット記事の話だ。モエノはそのバイトの女の子と男を演じながら、この荒唐無稽な話を語る。モエノの顔に幾重にもかかる手の影、彼女の背後に幾重も伸びる影が、語る内容の異様さをさらに強調する。スミコさんの「あ、シゲコさん。まさしくそれはシゲコさんよね」という言葉と、それに対するモエノの「そうです、きっとシゲコさんの霊が男にとりついたんです」という応答によって、シゲコさんという不幸な存在がここに奇妙な形で回帰してくるわけだが、話の唐突さ、細部のリアルさ(丸亀製麺のうどんメニューとその値段がバイトの女の子の言葉として次々と発せられる)と相反する心霊現象という突拍子もなさに観客は笑うしかない(写実的な表現が重なった後に突如として現実ではあり得ないフィクションの場面が挟まれるのは、映画では常套手段だが)。あまつさえ生実が演じる「東京心霊研究所」の所長アズミノが突然登場し、そのネット記事を書いたのは自分だとしたり顔で解説を始める始末だ。
葬儀の時に大きな声でスミコさんが発した言葉も照らし出すことができなかった不幸の暗がりを、男に取り憑いたシゲコさんが埼玉で再演し、そしてつけることができなかった明かりをつけてみせた。スミコさんの言葉は葬儀をざわつかせることもできなかったが、亡霊と化したシゲコさんは自分の行為で場をパニックに陥らせた。無論ここまでの語りは全てモエノによる口からの出まかせかもしれないが、モエノの語りは、「透明人間」が周囲の無関心という闇の中で不可視化され続けるわけではなく、自分を透明化する周囲に対して一泡吹かせることができると示す抵抗の声になっている。モエノはスミコさんの語られなかった言葉を可視化し、透明化されたシゲコさんの不幸をホラ話として語りなおす。
所長が帰ってしまうと、帰ろうとするモエノを引き留めてスミコさんはお茶を淹れる。冒頭と同じ音楽がまた流れる。スミコさんの動きは緩慢で、モエノはスミコさんをただじっと眺めている。出されたお茶を手に取るわけでもない。二人は近くにいるにも関わらず、果てしなく遠く、まるで互いに他の空間にいるかのようにも感じられる。こうして上演は終えられる。
透明化された不幸を、既存のステレオタイプや「正しいイメージ」(笹岡啓子『「正しいイメージ」への抵抗 −−マレビトの会「広島を上演する」に寄せて』より)とは違う形で回帰させること。マレビトの会は、わたしたちと近くて遠い不幸との間合いを測り続けている。彼、彼女らは、被爆都市というイメージによって不可視化された都市たちの多様な相貌に、政治活動や報道とは異なる間合いで近づこうと試みてきた。被爆という現実の重さは、近づき過ぎれば全身全霊で活動する支援者や被爆当事者に対する搾取の誹りを免れ得ず、遠ざかり過ぎると「被爆」のある種のステレオタイプに全てが塗りつぶされてしまう。その間を探るために用いられたのが、淡々とした演技と常に複数の戯曲という、なんらかの正解のようなイメージに固着しないためのフィクションの軽さだった。
政治の間合い
わたしは調査研究のためにこの作品の稽古場を合計十日間ほど見学したが、創作プロセスにおいても、上演そのものにおいても、わからないことを抱え続けてどう向き合うのかという作業が要求されていた。意味を確定するために舞台上で起こることを言葉や所作で彫琢するのではなく、イメージとその元になる想像力に揺らぎを持たせ、固着させないための足場を安定させることに徹し、説明をしないという態度はいつでも一貫している。稽古場で演出家としての松田正隆は戯曲の内容に関する説明はほとんど行わず、演技やそこから生じるイメージの輪郭が固着しないよう、よりよい揺らぎあるいはイメージの幅を生み出すためにコミュニケーションをとっていた。マレビトの会の稽古も上演も、なにかの説明や表現の探求というよりも、俳優と観客がただ言葉と身体に向き合うための足場作りに近い。重要なのはおそらく理解することではなく、見える聞こえる今ここの語りから、そこにある見えない聞こえないどこかを分かち持ち、理解できないなにかを感知するための自分なりの間合いを探り続けることなのだろう。
身体と身体の間合いを測ることはある態度の表明であり、それはきわめて政治的な行為でもある。政治学者の齋藤純一は、『政治と複数性 民主的な公共性に向けて』において、九・一一以降の二十一世紀における世界的な社会の分断に関して、「無視され、黙殺されようとしているところ、遠ざけられようとしているところに逆に「近さ」を設定していく動きを政治的と呼ぶならば、排除の完成を妨げるそのような政治的行為が私たちの社会認識にとっても不可欠の条件となっている」と述べ、次のように続ける。「交渉の回路をつくりだし、批判的な認識を呼び覚ますのは、他者との間に具体的な「近さ」を設定する行為、しだいに隔てられていく距離に逆らって近接性(プロクシミティ)をつくり出す政治的行為である。おそらくそうした「近さ」なしには、ある人々が「この世界にまったく属さない」者として見棄てられる事態が察知されることもないだろう」。
「プロクシミティ」という語は空間あるいは時間の中で近くにある状態のことを指す。演劇の上演はまさにこの時空間の「近さ」を生み出す政治的行為であり、政治的場である。だが演技において演者はその役そのものではない。演劇が作り出す「近さ」は、戯曲の言葉と俳優の演技で組み上げられる役という限りなく遠い他者に接近しようとする試みに過ぎない。この試みにおいて、わたしたちは現実の利害や時間からある程度離れて、他者との関係性を模索することができる。演劇は、実際に近づくことが難しい存在に近づく可能性をもたらす。
現代のマスメディアやソーシャルメディアによって喧伝される理想の人間像は、効率性、合理性、成長性を金科玉条とする新自由主義に基づく。この経済思想は、最終的には金銭に行き着く数値の最大化を絶対的な正義として、そのロールモデルたりうる経営者、マーケター、クリエイター、インフルエンサーを称揚する。こうした人間像から遠く離れた、『皿の上の見えない人間』の登場人物たちのようなおかしな人間、不器用な人間、不幸な人間は、バズりのネタとして消費されるか、徹頭徹尾無視される。演劇は、本当は既にわたしたちの周りにいるにも関わらず遠く不可視化された存在とわたしたちの間に、俳優による上演というかたちで文字通りの物理的な近さを再度もたらす。その近さは、映像やテキストのようなデータに還元されえない、個別具体の身体と声と時空間を共有することに基づいている。こうして複数の人間がそれぞれの想像力を介して時空間を共有する時、この「近さ」の中にもう一つの政治性が浮かび上がる。
『皿の上の見えない人間』において観客の想像力は、舞台上に提示される限られた情報の中で絶えず判断と修正を繰り返すことを強いられる。この経験は、演劇の創作現場で常に行われている解釈の政治を、観客自身が引き受ける時間でもある。演劇の政治性は、常にその現場にある権力と想像力という二つの力にも関わる。演劇の創作は、権力を握っている人間の想像力の実現に、権力を持たない人間が自らの想像力を奉仕させるという解釈労働によって成立している。劇作家、演出家、俳優、舞台美術、小道具、衣装、照明、音響、舞台監督、制作など多岐にわたる立場から、誰の想像力が優先されるのかはその時々の権力関係の中で変化する。ここでの問題は大きく分けて二つある。一つ目は、誰の想像力が優先されるのかだ。多くの場合、優先されるのは、予算、人事、あるいは芸術的理念に関する決定という権力を持つ者の想像力である。「芸術」を標榜する演劇の創作現場では、芸術としての理念を語る者である団体の代表や主宰者(演出家や劇作家が多い)が決定権を持つ場合が多い。マレビトの会では、それは代表の松田正隆だろう。二つ目は、創作に関わる多種多様な立場の参加者それぞれが提起する想像力への応答が、その現場で担保されているかどうかだ。マレビトの会の稽古終わりではいつも、稽古場の参加者ほぼ全員(座組のメンバーだけでなくその日だけの見学者も含む)に松田が意見を聞いていた。特に意見がないという参加者に対して発言を強要することはなく、もしよければというニュアンスで行われるこのフィードバックによって、具現化された松田と演者たちの想像力に対して、見ている側の想像力がどう反応したのかが共有された。ただ見ているだけの役割、すなわち観客もまた、この解釈労働をめぐる権力関係の一員なのだ。創作プロセスだけでなく公演においても、作り手と受け手の間には解釈労働が存在する。ただそれは、(時折書かれる劇評やコメントを除き)マレビトの会の稽古場でのように可視化されることはあまりない。観客は、上演と物理的には近いが、そこで起きていることとの関係性は一時的なもので、遠い。
齋藤の言う意味で「政治的」であることは、題材が政治的であることとは必ずしも一致しない。題材が政治的であることは、左右の枠組みや党派性、あるいはアート市場や社会の流行りに回収されてしまうことも多い。演劇の重要な政治的側面の一つは、支配・被支配の権力関係に留まらない人間同士の関係性、あるいはそうした集まり方の試行錯誤にある。演劇とは己と世界との関係、あるいは自らと他者の間合いを測り直すことの謂であるとするなら、その政治的な「近さ」の探求は、戯曲の執筆、演技と演出を決定する創作プロセス、本番での上演を通じた、作り手による舞台空間での美学的な試みだけにとどまらないだろう。上演の空間にマレビトとして現れるのは、作り手だけではない。『皿の上の見えない人間』は戯曲と上演の次元において新しい関係性を探求したが、公演の次元での新しい関係性、つまり劇場という皿の上で見えない人間とされている観客を、どう見るのか、どう向き合うのか、どう位置付けるのかについても、探求の余地はまだある。観客席に集うのもまた、「マレビトの会」である。マレビトの会がその創作プロセスに留まらず、発表形態も含めて今後どう集まり方を考えていくのか、注目したい。
朴建雄
伝統芸能から現代演劇、コンテンポラリーダンス、パフォーマンスアートまで、幅広い分野の上演芸術に関心を持ち、ドラマトゥルクとしての実践と批評、理論的研究を横断しながら、創作プロセスおよび上演の調査と分析を行う。また現在、東京大学大学院総合文化研究科特任助教として東京大学アルスノーヴァの制作・運営に関わる。