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「ドラマ演劇の再検討」についての覚書|三宅一平

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 東日本大震災および原発事故が起きた一年後に上演された、マレビトの会の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)は、福島をテーマとした実験的な上演形式であった。その作品は、インターネット上の発信と路上演劇からなる「第一の上演」と出演者たちが「第一の上演」の記憶を想起する「第二の上演」から構成されていた。「第二の上演」では、元体育館を改装した劇場にしすがも創造舎という広いスペースに点在するスポットライトの下に出演者が決まった時間に訪れて、特定の出来事を想起するのだが、観客はその出演者たちが想い出す姿を、配布された「第一の上演」の冊子を参照しながら鑑賞することができる。同時並行して、隣接する元校舎のなかでアーティストの荒木優光による音響作品が展示されており、「第二の上演」のパフォーマンスとあわせて回遊して鑑賞できるように構成されていた。

 『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』につづく『長崎を上演する』という作品では、複数の劇作家が長崎に取材をして執筆した戯曲を舞台装置のない素舞台、小道具を使わない無対象の演技によって表現された。『長崎を上演する』は、2013年に試演会という名目で上演が始まり、最終的には2016年に全ての演目を上演する総集編として愛知県芸術劇場で上演が行われた。『長崎を上演する』では、とりわけ戯曲というテキストがあるため、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』と比較すれば、素舞台、無対象であっても、筋のある「ドラマ」が表現されていたといえる。松田正隆も、当時の創作について振り返りながら、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』に至るまでの創作では「ほとんど表象的に統合した物語として示せない」作品になっていったのに対し、『長崎を上演する』では「統合したもの」を作り、ドラマ演劇を考え直すという意図があったことを明かしている(ポッドキャスト「マレビトの会を振り返る vol.8」)。

 松田のいうように、『長崎を上演する』に先立って2013年7月に開催されたイベント「マレビト・スタディーズvol.3」でも「ドラマ演劇の再検討」がテーマとなっている。ここでは、そのイベントに合わせて発表された松田の文章「出来事につかまれる」で、ドラマそのものを再定義しようとする考えが表れていることに着目したい。そのテキストでは、警察に聴取を受けるという印象的な体験をした殺人未遂事件を例に挙げて、事件に巻き込まれながらも、その事件の全体像を掴めないまま、ドラマを立ち上げることで、その事件を理解しようとする松田の心の有りようが明かされる。その事件をふまえて、一般的なドラマの解釈と対比しながら、次のような文章で、松田は「ドラマ」を出来事のなかで捉え直そうとする。
 

劇(ドラマ)を筋や行動、葛藤としてとらえるのではなく、出来事の「受け入れ」として考えること。出来事それ自身ではなく、ましてや出来事の表象でもなく、出来事のほうからの、それを私たちとむすびつけようとする力のことを「劇」と呼びたいのです。それゆえ、ドラマ演劇では、出来事を生起させるのではなく、出来事につながる劇を生起させねばなりません。(松田正隆「出来事につかまれる」)

 
 この文章のなかで、松田は二つのドラマの定義を示している。一つは、筋や行動、葛藤として捉えられる一般的なドラマの定義であり、もう一つは、松田の定義する出来事から結びつけられる、出来事のドラマの定義である。松田の言葉に従うならば、『長崎を上演する』は、後者の出来事のドラマを表現しようとした試みといえるが、ここでは、前者の一般的なドラマを否定している点に注目したい。前述したように、松田は『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』から『長崎を上演する』へと創作をするなかでドラマ演劇を考え直すという意図があった。簡単にまとめるならば、二つの作品の変化は、ポストドラマ演劇の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』からドラマ演劇の『長崎を上演する』への回帰というふうに表現できる。しかし、一般的なドラマの否定という観点で、二つの作品を並べると共通したものがあるのではないか。テキストを持たない『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』と同様に、『長崎を上演する』も、戯曲はあるとしても、大文字の作者がいて、起承転結があり、カタルシスをもたらすような物語の形づくることをめざしてはいない。

 『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』と『長崎を上演する』の接続については、どちらの作品にも出演した俳優の西山真来も、その共通性を見出している。『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』では、数ヶ月かけて自身がその役になってブログで発信し、最終的には、その出来事を想起しようとする上演であったのに対し、西山は『長崎を上演する』について、無対象であるマイムの演技のなかで、戯曲を読んで思うことや風景を上演する空間に「念写」するようにして、「感じたものに対して動く」と自身の演技について説明している。
 

犬飼 『アンティゴネー(への旅の記録とその上演)』から共有する何かがあった?

西山 そうです。「思い出す」じゃないですけど。この場合は(現地には)行ってないんですけど、戯曲を読んで、思うこと、風景とか、そういうものを空間に念写するみたいに感じて、感じたものに対して動くみたいな。ここに「チョコレートあります」と説明するために動くことも、普通の劇だったら多いんですけど、それはあまりやらなくてよくて、「チョコレート食べた」と読んだ、感じた、感じたものだけはやる。そのためにちょっとだけ動きが必要だったらやる、そういう感じで演技をやってた気がする。『アンティゴネー(への旅の記録とその上演)』の流れがあったなと思ってました。(ポッドキャスト「マレビトの会を振り返る vol.8」)

 
劇作家の犬飼勝哉の質問に答えるなかで、西山はより具体的に『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』と『長崎を上演する』の演技の共通点を明らかにしている。例えば、「チョコレートを食べる」という演技において、チョコレートがあることを了解可能なかたちで表象するのではなく、演じる俳優の感覚を起点として表出する『長崎を上演する』の演技が、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』における想起のあり方と共通しているという。『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』であれば、自身が役柄として生きるなかで思い出すという感覚を起点として身体を動かし、『長崎を上演する』であれば、自分は体験していないが戯曲というメディアを通じて感じたことを起点として身体を動かす。自身の体験と劇作家による他者の体験という違いはあるものの、演技では、感覚に重きが置かれて、身体の反応が副次的なものとなっている点で、どちらも同じようなものとして捉えることができる。この西山の演技を通じた作品に対する解釈は、松田のいう出来事のドラマという演劇の捉え方を適確に表現しているともいえる。先にも述べたように、松田のいうドラマは出来事を起点としてドラマを生起させようとするものであるが、西山の演技における感覚を出来事に重ね、演技で表出される身体の反応をドラマに重ねてみると、二人の考え方には相似するものがあるのではないだろうか。不意に訪れる出来事と身体感覚によって駆動しはじめるドラマと身体反応は、常に未然のままで終わるのかもしれない。そうした演技の未然さについて、犬飼は、松田のテキストをふまえて、次のように端的に説明している。
 

犬飼 (中略)実際のチョコレートは舞台上にはあげない。マイムで、手が口に運ばれる。この「疎かさ」、この「マイムの雑さ」が大事だと。(ポッドキャスト「マレビトの会を振り返る vol.8」)

 
犬飼のいう「マイムの雑さ」の指針になるのは、劇作家たちが書く戯曲である(筆者も劇作家の一人だった)。『長崎を上演する』の劇作家が、長崎に行くことだけが必須条件として課されていたことは、松田のいう出来事のドラマに沿って、長崎で体験する出来事を起点とすることが戯曲に求められていたといえる。あえて、戯曲が書かれた後に行なわれる西山の演技から戯曲の作り方を考え直してみるならば、劇作家もまた、長崎という場所で体験した出来事の感覚から表れる反応をテキストに起こそうと試みていたのかもしれない。

 ポッドキャストのなかでも話題にあがっている松田が書いた「フレンチレストランにて」という戯曲は、大まかに説明するならば、結婚を前提に付き合っていた男女がフレンチレストランで別れ話をしているという内容である。女性から別れ話を切り出すのだが、その原因が男性の外国人差別と原爆投下におけるナショナリズムの意識を女性が感じ取ったことであるということが、さりげない台詞のなかで示唆される。あくまで会話劇であり、大きなアクションが起こるわけではないが、男性の「公平」という名前の子供が不気味な言葉を時おり差し挟み、全体として不穏な空気が流れている。戯曲の最後で、レストランの会計でクレジットカードが使えず、支払いを済ますことができなかったために、その子供が、男性が下ろしたお金を代わりに持ってくる場面が描かれる。
 

公平、壁の掛けてある絵を見つめる。
公平「この絵、どこの風景なんですか」
シェフ「パリです」
公平「じゃ、この川は」
妻「セーヌ川です」
公平「へー」

(松田正隆「フレンチレストランにて」)

 
お金を払いにきた公平は、シェフのその妻との短いやりとりを経て、最後に店の壁にかかっているパリのセーヌ川の風景を描いた絵画を見つめる。素舞台で無対象の演技であるため、実際の上演では絵は掛かっていない。公平を演じた生実慧は、西山のように感覚を起点には演技をする方法ともやや異なって、『長崎を上演する』での自身の演技を「現実の劇場の力」に引っ張られながら、「マイムみたいなものをポンと置くみたいな感じでセリフを発する」と表現している(ポッドキャスト「マレビトの会を振り返る vol.8」)。俳優の生実は、戯曲に書かれた絵を自身の感覚のなかをもとに具体化していくのではなく、戯曲で表された内容そのものをありのままに表出しようとしているようだ。生実の身体感覚のなかで、絵画が立ち現れていないとしたら、生実は何を見ているのだろうか。観客として立ち会った音楽家の桜井圭介は、この場面について次のように表現している。
 

突然、客席のほうを向きこちらをじっと見つめるので一瞬ギョッとするが、客に向かって語りかけるという手法も「現代演劇」にはあるよな、と思いきや「この絵はどこの風景ですか?」などと口にする。それで見えない壁に掛かった絵を指しての言葉だと理解はする。にしても、そこに壁があるとはその時点まで思ってもみなかったので、それは驚愕の新事実だよ、と思う。(桜井圭介「桜井圭介は「長崎を上演する」を観て演劇は憎いね! この! と改めて思う」『ケトル』)

 
桜井は、不意に観客と対面した生実に対して、一瞬、驚いて身構えたのち、生実が不在の絵画を見ているという事実を了解して、不在の壁が現れるという劇空間の持つ虚構性を知覚して、さらなる驚きを得たという自身の体験を説明してみせる。

 しかし、前述したように、生実の身体感覚には、劇場が強く意識されており、観客や劇場というものが目の前に広がっているようだ。生実の説明を敷衍するならば、「フレンチレストランにて」で描かれる絵画の額縁は、あくまで架空であり、実際には見ることはできない。あるのは劇場という現実の空間だけである。生実は、戯曲を忠実に表現しようとしながらも、本人が意図的に行なっているかどうかにかかわらず、同時に現前にいる観客も凝視めかえしているといえる。その凝視めかえすという行為こそが、その姿に対峙して二重に驚いたという桜井の感覚の要因となっているのではないだろうか。

 さらに踏み込んでみるならば、こうした生実の演技体は、筋や行動、葛藤としてとらえ、物語のなかでイメージを立ち上げようとする一般的なドラマのあり方をゆさぶるだけでなく、観客が劇を見るという構造を転倒させて、出演者が観客を見るというドラマの構造自体を変容させる力を持っているかもしれない。それは、ドラマのなかでは、観客に向かって語りかけていなくても、現実の劇場で観客に向かって語りかけていることを観客が知覚することによって、起こりうるのではないだろうか。そして、このような表現もまた、一般的なドラマを否定する「ドラマ演劇の再検討」という松田のマニフェストを体現しているものといえるのではないだろうか。


三宅一平

マレビトの会には、2012年の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』より参加。『長崎を上演する』『福島を上演する』では劇作や演出を、映画『広島を上演する』では制作を担当した。新作上演『皿の上の見えない人間 Invisible woman on the plate』でも制作を担当している。